2006年10月31日

”ケータイを持ったサル”の世界どこまで?

昨今の日本が「ケータイを持ったサル」の時代と言われて久しい。
あるとあらゆる人間が、ケータイ中心の生活をしている。
確かに現在の日本では、若者ならずともケータイなしでは生活できなく
なっている。

そのケータイ中心の世界がまた新たな時代に入った。
10月24日、携帯電話の番号はそのままで、携帯会社を変更できる
「番号継続制度」が始った。
日本国内の携帯電話契約者数が9,000万件を超え、契約会社の変更に
伴なう番号変更がわずらわしいとの声に応えたものである。

電話サービスが日本で開始されたのは、電話が米国で発明されてから
14年後の1890年。
担当の逓信省は、東京と横浜に交換局を設け、企業や富裕層の加入を
募ったが、年間利用料が50円と当時としては高額だったため、当初の
契約者は260件に留まった。

加入者は申し込み順に三桁までの電話番号が割り当てられた。
東京の一番は東京府庁(現東京都庁)。
通話する再には送話器を取って交換機につなぎ、相手の番号を言って
交換手に呼び出してもらう必要があった。

その後電話設備の導入地域も全国に広がっていったが、通話需要に
回線設備が追いつかず、受話器を取り上げても、交換手を呼び出せない
ことが多かった。
特に市外通話は、一旦交換手に申し込んでから、かかって来るまでに
数時間も待つ必要があった。

このため政府は、電話番号を直接入力するだけで相手につながる自動交換機
の導入を進めた。
1925年以降、東京や大阪などの都市圏で導入され、第二次世界大戦を挟んで
地方にも普及していった。
ただ基本的にはダイヤルを回してつながるのは市内だけで、1950年代後半になっても、
都内からは関東近郊までしかつながらなかった。

1961年、政府は「全国番号計画」を作成、市外番号制度整備に着手する。
全国を九地域に分け、北から順に一から九まで番号をふり、冒頭に「0」をつけ市外局番と
すると共に、市外局番・加入者番号と合わせ、必ず九桁(現在は十桁が基本)となるようにした。
固定電話に関しては、基本的に当時の番号制度が現在まで続いている。

1979年、交換手を経なくても電話をかけられる自動化が完了。
全国どこからでもダイヤルを回すだけでかけられるようになった。
固定電話番号は地域ごとに割り振るため、地域外に引っ越すと変更しなければ
ならなかったが、最近は事情が変わりつつある。

IP(インターネット・プロトコル)電話に加入し、「050」で始る番号を割り当てられれば、
全国どこに引っ越しても変える必要はない。
また契約会社を変更しても番号が変わらない番号継続制度は2001年から始っている。

以上、「約115年の日本の電話の歴史」をザッと振り返ってみたが、若者文化を中心に
今後の携帯がどのように進歩していくのか想像もつかない状況になってきた。

通話・メール機能は当然のこととして、テレビ機能・カメラ機能・オーディオ機能などを装備
する「携帯のミニPC化」に伴なう「携帯新時代」が既に始っている。
利用者にとっては、できるだけ安価でかつ便利になればと望むものの、
「余りに多機能だと、果たして使いこなせるのか」という不安感は日に日に増している。

かくして、
”ケータイを持ったサル”にリードされる日が来ることに戦々恐々とする日々である。

ポスティングシステムの経済学

プロ野球のポスティングシステム(入札制度)とは、
米球界入りを希望する日本球界の選手の交渉権を、大リーグの
球団が入札で得るシステム。
FA(フリーエージェント)権取得を待たずに、大リーグ移籍を希望
する日本人選手の救済制度である。

移籍を希望選手があった場合、大リーグのコミッショナー事務局は、
30球団に選手名を公示する。
獲得を希望する大リーグ各球団は4日(土日を除く)以内に入札し、
最高額が日本側に通知される。

そしてその額を所属球団が受託すれば、30日間の独立交渉権が発生。
選手と契約に合意すれば、5日以内に日本の球団へ入札金を支払う。
適用期間は11月1日から翌年3月1日まで。
但し、30日以内に契約できなかった場合、交渉権は消滅する。

今年、このポスティングシステムが注目を集めているのは、西武・松坂が
俎上に上がっているからである。
今期17勝で防御率2.13、春のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で
MVPを獲得した松坂は、米紙が相次いで特集を組むなど、注目の的。

「米でも15勝できる投手」との評価で、ヤンキース、レッドソックス、カブス、
メッツ、ドジャースなど、米大リーグの名門チームなどが関心を寄せている。
入札額はイチローの1,312万5,000㌦(当時の換算レートで約14億円)を上回る
のは確実の状況で、2,000万㌦以上(約24億円)以上との観測となっている。

巷間では、松坂はヤンキース入りを希望していると伝えられてはいるものの、
このポスティングシステムは、ヤンキースの宿敵・レッドソックスの存在もあり、
昨今の先物デリバティブに似て、今後の動向は微妙である。

レッドソックスは今年、優勝予想を裏切って3位に転落。
ここでヤンキースに松坂を取られてしまえば、差が開く一方。
そこでポスティングシステムの欠陥を利用して妨害工作を図るという噂。

レッドッソクスがヤンキースの予想提示額2,000万㌦を上回る3,000万㌦程度の
入札金を用意して独立交渉権を獲得する。
その替わり松坂には条件を渋り、故意に交渉決裂させる。
こうすれば1㌣も払わずにヤンキースの補強を妨害できることになる。

確かに制度上はそうした謀略が可能なのだが、果たしてそこまでやるのか。
しかしヤンキースとレッドソックスは、これまでも何度も仁義なきトレード潰し
合戦を行なってきた歴史あり、決して机上の空論ではない。

しかし西武とすれば、松坂が西武入団以来支払ってきた金額以上の金額が
手に入るチャンス。
松坂がFAを行使してタダで米大リーグに行かれては元も子もない。
従って、どのチームでも、カネ次第ということにはなる。

ピンストライプの松井+松坂の「MMコンビ」の姿を是非見てみたい。
そうなれば、”来年の朝のおかず”はさぞ美味しかろう。

レッドソックスのスタッフのご歴々様、どうか無用な邪魔はされませんように!!

2006年10月26日

嘘のような本当の話

金融市場では、理論的にもファンダメンタル的にも
「(突然に)それまでとは真っ向逆の動きをする」時がある。
結果的に見れば一時的で確かに不可思議な現象だが、
金融市場ではそれを”神風が吹く”と称している。

この神風によって、絶望的に不利な形勢が一気に逆転するが、
その時の決めゼリフは「平生の行いが良いから」。
笑うかもしれないが、平生の行いが悪い人、特に女性を悪し様に
した人は相場に勝ち続けることはあり得ない。
何故なら、勝負の神様は女神だからである。

人間の「人生いろいろ」と言われるのは、良い意味でも悪い意味でも、
このような神風が吹くからだが、ただ人間の寿命だけは、生まれた時
から決まっているようである。

今日の朝、母親の従兄弟、つまりは”またいとこ”が急死した。
享年71歳。
病死とか交通事故とかではない。
朝の散歩の途中、熊に襲われて死亡した。
頚動脈を一発かまされ、即死状態だったらしい。
NHKの全国ニュースでも取り上げられた。

熊が柿が好物だと初めて知った。
故人の家周辺は柿の産地ではあった。

故人とのつながりは、ここ5年は特に密だった。
何故なら、故人の長男が衆院選挙に立候補、自分が選対本部長を
勤めたからである。
元々自分は選挙には素人で、ただでさえ自民王国の富山で、民主党
からの立候補では努力しても限界があるにはあった。
自民のネットワークに完全にしてやられた。
しかも二度も...
その悔しさは経験してみなければ解らない。

時折顔を合わすことがあったが、喋れば繰言になるので、できるだけ
選挙のことは言わないようにしていた。
そんな故人だったが、熊にしてやられるなんて...

嘘のような本当の話で、正直、言葉もない。
言葉もないが、しかし何か言わなければ気が済まない。
”お疲れさまでした”と言うしかないが、それにしても余りに劇的な
死だった。合掌。


2006年10月25日

食文化の研究(その1)

新米の季節である。
稲刈りが終わり、今年の採リ立ての米が出回る季節。
採り立てだから、確かに美味しい。
松茸ごはんや、栗ごはんも、この季節ならではのもの。
美味しいからたくさん食べるという悪循環(!?)である。

富山の実家は、建前上”本家”という位置付けで、親戚筋
から相応の新米が送られてくる。
そしてその送られてきた新米の”お裾分け”が送られてくる。
毎年、この”お裾分け”が届く頃、「オータム・ハズ・カム」を
実感することになる。

実家の食文化は”魚”が中心だった。
代々が漁師の家だから、致し方ない。
幼少の頃から、”朝から刺身”の世界だった。
今流行の”カニ”も、小学校卒業までに一生分食べた。
「カニ味噌が美味しい」との一般的な論評だが、カニ味噌を
美味しいと思ったことは一度もない。
秋から冬のカニの季節、実家の食卓ではこれでもかと、毎日
味噌汁にカニが入れられた。
当時の記憶は薄いが、カニ味噌は食べずに捨てていたように思う。
タラ汁も今では実家近辺の名物になっているが、カニと同様だった。

そうした魚中心の環境の中で、牛・ブタ・鶏肉などの”肉”への願望が
強まっていった。
当時の世界の最初の肉文化は”コロッケ”だった。
余りにコロッケ、コロッケと連呼するので、時折母親は自家製コロッケ
を大量に作ってくれた。
男兄弟3人分で50個以上。
3人でいつもペロッと平らげたが、さすがに胸焼けがした。

こうした肉文化への願望が完全に消えたのはNY滞在当時であった。
ある秋の日、エライ方のガーデン・パーティに招かれた。
約30人の招待客に供されたのはデカイ牛一頭の丸焼き。
鼻の穴からケツのアナまでデカい棒でつるされ、それをグルグル回し、
3時間ばかりで焼き上げる。
その日食べた総量は、これでどうだと(多分)10㌔超。
いかにもアメリカ的な大味で、かつダイナミックで、そしてアホらしくて...
以降はステーキ、ステーキと騒がなくなった。

食事といえば、男の人生の中で、女性との食事も重要である。
これまでの人生で、女性と食事する機会は無数にあった。
敢えて数えたこともないが、ただ覚えているのはキレイな食べ方
をする女性には滅多にお目にかからないという点である。

表面的には着飾って、容貌もレベル以上の女性が、出てくる料理を
食い散らすパターンは間違いなく興醒めする。
食べれる以上に頼むだけ頼んで、食い散らす。
その姿からは、”親の躾”が見え隠れする。
それまでの気持ちがスッと冷えていく。
誰もが感じる感想であろう。

今年、この広い東京で全く偶然に、自分と同郷の富山出身で、
つい最近まで高校生だった十代の女の子と知り合いになった。
スタイルもバツグンだし、相手を見据える大きな目が魅力的。
いかにも”華の真っ盛り”といった現代風のオンナの子だが、食事して
驚いた。
出てくる料理を「美味しい!」と連発しつつ、誠に上手に、そしてキレイに
食べるのである。
その食べっぷりもさることながら、魚の姿焼きなど、まさに骨の標本しか
残らない(!)
作り手にとっては、それこそ作り手妙味に尽きる。
こうして彼女は「新作料理の味見番」に就任したのであります。

実りの秋。食欲の秋。
その人間の環境によって形成された食文化は、その人間の性格を
恐いまでに映し出すようである。


2006年10月24日

今日までそして明日から

急激に秋らしくなった。涼しいというより寒い。
ここまでは夏が一体いつまで続くのかといった、まさに
亜熱帯状態だったから、その温度差を実感している。

10月23日(月)、NHK午後10時からの「プレミアム10」。
静岡県・掛川のつま恋での31年振りとなる吉田拓郎の
コンサートのドキュメント。
最初は何気なく見ていた。
そのうち、徐々に魅入られていった。

今から30年前の”よしだたくろう”は好きではなかった。
1970年代当時、盛んだった学生運動とは別のラインを走っていた。
「斜に構え、大人の世界に挑戦する」といった独特の流れがあった。
ただ野生児そのままに、フォークと言いつつ、無闇にシャウトし続ける
姿に、何とはなしに違和感を感じていた。
解るけど、チョッと何か違うだろう...

そうした”斜に構えた”世の中に対する挑戦は、複数回のレイプ事件
に表象される結果となった。
何をしても許されるといった”成り上がり”のギラギラ感が鼻についた。
要は、歌詞で表現している拓郎と、実際の行動に現れるたくろうには
完全なる温度差があった。

しかし時間が人間を変えていた。
肺がんを克服し、死と直面した結果、人間的にも魅力を増していた。
自分が作った歌詞でありながら、その歌詞の内容を噛み締めるように、
聞く者に訴えるように歌っていた。
知っている曲が、全く別の曲に聞こえた。

9時間超に及ぶ5部構成のコンサートのラストナンバーは
「今日までそして明日から」。
1970年の吉田拓郎・第二作である。
しかし、時間を超えた説得力があった。
テレビを見ながら、一緒に歌っていた。

団塊の世代が時代を大きく左右すると言われる時代である。
単なるお荷物になるのか、はたまた即戦力になり得るのか。

自分の経験から言えば、大きな組織に従属してきた人間ほど、
今後の新時代では脆いように思う。
その大きな組織を離れてしまえば”ただの人”なのである。
しかし”ただの人”であることを実感できれば、自分の進む道が
直ぐにも見えてくるように思うが...

何気なく見てしまったドキュメンタリーに、団塊の世代が置かれた
厳しい現実を見たように思う。


2006年10月19日

青年は荒野を目指す

最近”いじめ”が問題になっている。
指導すべき先生が先導しているとの報道である。
それが本当であれば、根本的な部分から直さなければならない。

80年代の”ゆとり”教育の弊害が出始めていると思う。
ゆとり教育とは、根本が「受験勉強は無駄」という論理である。
しかし「たかが受験で挫ける者に次のステップはクリアできない」
という厳しい現実がある。
受験という大目標があるから、必死になって勉強するのである。
今の教育体制は、根本から間違っていると思う。

過去の経験から、何かに集中していれば、また集中することによって
困難を乗り越える力が出てくると思う。
怠惰な”仲良し”クラブの中で、怠惰な時間を過ごしていれば、暇だから
何か刺激があることを、となってしまう。
それが”暇つぶし”の、そして”刺激を求めて”のいじめにつながっている。

何かに集中していれば、それがスポーツであれ、受験勉強であれ、
暇がなければいじめなどする時間も必要も無い。
世界は広い。
ごく限られた小さな地域で生活していると、いかに自分が小さいかは
判断できない。
海外等、実際に武者修行をしてみれば分かることである。
最近の先生方の公務員的な限定版の狭い知識では、「青年は荒野を目指す」
という発想は期待できない、残念ながら。

行き着けの和食・六本木”のりの”の、イッコーさんの旅立ちの日が迫っている。
ここ2週間は”イッコー・サヨナラシリーズ”で満員御礼の毎日。
妙齢の女性のからの花束も届いて、イッコーさんの人気のほどが知れる毎日。
豪州での武者修行。
さてどのように変貌して日本に帰ってくるか、けだし楽しみではある。

またフロアで頑張っていた千嘉ちゃんも退職。
都内の某料亭に勤めるという。
それって”ノーパン××××”じゃないよな(笑)。
どこかで出会うのを楽しみにしてる。

「青年は荒野を目指す」。
だから青年なのである。


2006年10月17日

欧州通貨異変!?

飲み屋の話ばっかで、たまには金融の話もせよ!との
暖かい叱咤激励(?)もあり、ハイとばかり、今日は最近の
為替動向について。

最近の為替市場はNYダウが好調なせいもあって、ドル買い先行。
北朝鮮問題を抱える晋三クンの日本に対する評価が低いのは自然
のこととしても、米経済自体がさして好調とも思えない。
12,000㌦の大台に肉薄しているが、どうも”眉ツバ”。
あくまで消去法でNY株式が選択されているようだ。

こうした”熱狂なき株高”の背景には、原油・貴金属の急落がある。
特に原油相場は、今夏に80㌦を窺う勢いだったのが、最近では
60㌦を割り込み、投機筋の動向次第では、上昇の原点40㌦の
可能性がないわけではない。

元々投機筋は、11月に入れば2006会計年度の締めに入るから、
10月中が勝負時。
ヘッジファンド大手のマランス・アドバイザーが天然ガス相場で
巨額損失を出したことで、投機筋の商品相場からの(一時的な)
撤退傾向も致し方ない。

こうしたドル買い先行ムードの中で、欧州通貨が転換期に来ている。

10月17日4:30AM。くだんのMr.湘南(ホント、久し振り)との会話
青柳「取締役、元気?」
湘南「久し振りですね?また外で飲んでるんですか?」
青柳「酒の美味しい季節。 ボチボチってとこ。」
   「ところでユーロの上値が重たいようだけど?」
湘南「1.26台は完全に売りになってますね」
青柳「1.2450がサポートだけど、それがブレークしたら...」
湘南「年末に向け、意外な展開になるかもしれません」
   「その第一候補がユーロと思ってます」
青柳「確かにユーロ・円の週足の乖離が大きく、円が絡む以上、
    近いうちコレクションが起こりそう...」
湘南「ドル円は117.50円が固そうで、仮に117.50円をブレークしても、
   116円前半もまた固そうですからネ」
青柳「とすれば、ユーロ円の乖離の修正のためには、ユーロ急落って
   シナリオか...」
湘南「ポンド円も危ないと思ってます」
青柳「確かにポンド円の日足が崩壊状態で、赤信号点灯ってとこか...」

NYダウの快進撃が、為替市場に微妙な波を送っている。
2006年末に向け、一波乱ありそうな気配である。  


2006年10月15日

不振のJAL(日本航空)の研究

JALの不振が言われている。
内外共に置かれた環境は厳しい。
全日空=ANAが順調な伸びを見せる中で、日本を代表する航空会社
であったJALが何故に伸び悩んでいるのか。

最初の海外旅行は、1970年代後半のNYへの出張だった。
羽田から成田への移行時期で、成田空港での送迎にも
パスポートが必要な時代だった。

小学校時代から「羽田から海外へ行く」というのが夢だった。
空港ロビーから2~3分歩いてタラップを上り、上りきったところで
おもむろに後ろを振り向いて、ロビーでの送迎客に手を振る。
そんな状況を夢見ていた。
成田に国際空港が移行して、それも果たせぬ夢となった。

しかし何故に成田だったのか?
都心から急行で1時間にメイン空港があるというパターンは
世界に例がない。
最近になって羽田を中心に、国際空港機能を拡充する動きが
広まっている。
では、あの激しかった成田闘争は一体何だったのか。
三里塚闘争とも言われ、70年代の学生運動の重要なテーマと
なった成田は、今やその影が薄れ始めている。
結論的には「政治+利権」というパターンで、高度成長時代の
日本独特の癒着の成せる技だった、ということになろう。

70年代後半から80年代前半に利用したのは全てJALだった。
尾翼についている”鶴のマーク”が誇らしげだった。
そのマークを見ると安心した。日本に帰れるッ!と実感した。

今から約25年前、NY→ロンドン→独→東欧という3ヶ月にわたる
長期出張旅行をしたことがある。
ユーゴスラビア・ベオグラードで開催される世界フォレックスという、
為替関係者が集う世界的な会議出席を絡めた長期出張には、
強烈な思い出がある。

独・フランクフルトからベオグラードに向かう予定が、現地でのチェック
ミスで、ザグレブでトランジットせざるを得なくなった。
冬季五輪開催で最近になって有名になったザグレブだが、当時は木材
の集散地である以外には全くの無名だった。

1:00PMにザグレブで下ろされて、5:00PMまで空港自体もクローズ。
野っ原のど真ん中で、全く人もおらず、当然ながらティーハウスもなく、
世界の果てにきたようで心細かった。
野っ原に荷物を枕に寝転び、空を見上げていたら、もう日本に帰れないッ
なんて考えてしまった。心細かった。
今考えれば、なつかしい思い出だが、その時の澄み渡った青い空を今でも
覚えている。

ドナウ川に面したホテルでの会議も終わり、ロンドンに戻り、ヒースロー空港から
JAL帰国便に乗り込んだ時のこと。
「お疲れ様でした」と”日本語”で声を掛けられた時、不覚にも涙が出そうになった。
「お疲れ様」というシンプルな単語があんなに染みたことはなかった。
これで日本に帰れるッ!!

日本を代表する航空会社はJAL=日本航空であった。
そのJALがいつから傾き始めたか。

業界では1985年以降の超円高時代に、1,000億円を超える為替差損が出たのが
最大の原因と言われている。
1985年9月のプラザ合意で、240円から始まった超円高は、1995年4月の79.75円
で一応の終焉を迎えるが、その中で弱体化していったのは事実のようである。
差損を取り戻そうと、料金を高く据え置いたまま、シートを狭くしつつ大量の利用客を
詰め込んだ。
海外旅行が盛んになり、他の航空会社を利用すればJALのサービスが如何に悪いか
は一目瞭然だった。余りに違いすぎた。
JALには今も昔も「乗せてやる」という意識が残っている。
与えられた空間がとにかく狭い。客は人工飼育のブロイラーではないのである。

いつの頃からか”スッチーブーム”が起き、現在も継続している。
「スチワーデスであれば全て美人」とするある種の仮装ブームの中で、制服を崇拝する
マニアが俳諧する世界が出来上がっていった。
キャビン・アテンダントと名を変えたが、そうした航空会社独特の優越感も、特にJALに
は残っているようである。

国営企業としての気質を残すJAL再建は簡単ではないように思う。
それは戦後50年以上にわたって蔓延してきた”国営”という意識を払拭するのは相応の
時間がかかるからである。

飛行機を利用し始めて約30年。
愛煙者にはつらい時代となった。
しかし海外への用事もあり、飛行機を利用せざるを得ない。
そういう場合でもできたらJALは避けたい。
それが今のJALの現状であろう。
 

オクトーバー・ムーン(3)

ようやく涼しくなってきた。
しかし10月中旬というのに、未だに上着を着ると暑い。
かと言って、ワイシャツだけだと周囲から浮いてしまう。
この20年で確実に5~6度は違うようだ。
東京の亜熱帯化は確実に進んでいる。

10月12日(木)NHKBS2。
11時30分から放映「清流ワンダフル紀行」。
シブい番組だから見た方は少ないと思う。
実はこの番組、知り合いのプロカメラマンの
メジャー・デビュー第一作。
たかがNHK、されどNHKなのであります。

小島崇義クン。一歩独鈷のプロのカメラマン。
ここ10年の知り合いである。
知り合いと行っても、テレビ局勤務の実弟の元部下。
最初出合ったときから”できるヤツ”と思った。

八王子生まれにも関わらず、プロのカメラマンを志向し、
どこで出会ったのかしらないけれど、弟が”拾って”きた。
弟の紹介の仕方が秀逸。
”コイツ八王子生まれなのに、富山が好きなんだって!!”

野良犬扱いは失礼かもしれしれないが、”野良犬”という表現
がピッタリのギラギラ系だった。
その後、フジ系列局の選抜試験を潜り抜け、NYに1年間留学。
カメラマンとしての専門技術を習得。
弟は民放のドキュメンタリー部分で、グランプリを16回獲得して
いるが、その時のカメラマンがいつも小島クン。

その小島クンが本領発揮したのが、富山での”嫁取り”劇。
弟が”期待して”採用したアシスタントを、採用直後、リーチ一発で
ゲット。今流行りの”できちゃった”婚に。
”あの野郎、アッという間にやってまった!!”と、弟がぼやいて
おりました(笑)。
結局、弟が仲人をすることに。
で、現在は3人の子持ち。富山近郊の婦中町在住。

その小島クン、最近ではヒマラヤに行くは、アラスカに行くはで、
世界中を駆け巡っている。
「青年は常に荒野を目指す」のであります。

前置きが長くなったが、冒頭の番組は富山・庄川の紹介。
カヌーで岐阜から富山に流れ下るというドキュメンタリーだが、
実はロッピーという犬が主人公(と思う)。
本来自分は動物が好きではなく、従って動物からも好かれた
ことがないが、このロッピーという中型犬がまさに秀逸。
水を怖がらないし、カヌーにピタッと座っている。とにかく賢い。

庄川という大自然と、ロッピーが一体になって、時間が淡々と
流れていく。ナレーション、BGMもまさに自然体。
その道の専門家ではないので、専門的な言い方はできないが、
上質の地酒を、ぜんまいか何かの自然野菜で食している感じ。
ユッタリ感がたまらなかった。

機会があれば、富山で唯一気にいっている飲み屋(スナック)に
小島クンをご招待申し上げようと思う。
実家から車で約15分。JR魚津駅至近の8F建てビルの8F。
古いビルだが、周辺に高い建物はないので直ぐに分かる。
そこから見る富山湾と、真っ直ぐに伸びる線路の風景がバツグン。
その店の経営者が中学時代の同級生ということあって、気易い。
「歌は歌い放題だしッ!」って、実家に帰る度に顔を出している。
店の名前は「昴(すばる)」。
”いかにも”というネーミングだが、それはそれなのであります。

お互いに解り合った人間と、美味い酒を。
そんな酒が飲みたくなる10月なのであります。

2006年10月08日

オクトーバー・ムーン(2)

今日は台風一過の快晴。
空が抜けるように青い。まさに秋の空である。
風が多少あるが、湿気もなく心地よい。
今日の隅田川沿いは最高の環境であります。

松井・ヤンキース、デトロイト・タイガースに3連敗。
松井・ヤンキース以外のカードは見るつもりはないから
これで今年のMLBはオシマイ。
かくして来年の開幕まで、暗黒の6ヶ月が始まるのであります。

今年のシーズンは松井の手首骨折以降、MLBに全く関心が
なかったから、2006年は全くの不完全燃焼状態。

ところで、松井がヤンキースに行って4年。
ヤンキースはワールド・チャンピオンから遠ざかっている。
これって、松井が原因??
そうだったら、松井の巨人復帰があっても良い。
年俸15億は確かに日本球界では異常に高いけど、
松井が復帰すれば日本のプロ野球は生き返る。
その意味では格安だと思うが、如何でしょう?

ところで、連休って何気に寂しくないですか?
道歩くカップルが全てシアワセそうに見える。
銀座・六本木の飲み屋はほとんどが休みだし、
まさにお手上げ状態。

で今日は、炊き込みゴハンと肉じゃがのセットメニュー。
いつも大量に材料を買い込んで、作り過ぎるのが難点。
解ってはいるけど、これが自分の性分。
と言いつつ、多分二晩程度で胃袋に収まる。
もったいないからって、無理やり食べてしまう。
こうしてウェイトオーバーになっていくのであります。

食欲の秋。そして何気に寂しい秋であります。


2006年10月05日

富山中部高校

10月4日、実家のある富山のKNB北日本放送のラジオ番組
でライブのインタビューを受けた。
富山では珍しく、世界を放浪してきた”変わった”人間の意見を
聞きたいとの御所望で、喜んでお引き受けした。

金融論などを話していて、与えられた時間はアッと言う間に
過ぎていった。
そして、最後の質問の中に
「富山と言えば何を思い出すか?」という質問があった。
「富山中部高校」と答えた。

自分の出た富山中部高校は、典型的な進学校で、当時の1学年
550人の中で548人が進学するという、高校とは名ばかりの、実は
予備校であった。

東大・京大・一橋・阪大・東北大学など、旧国立一期大学へは
150人程度。
早稲田・慶応などは、複数学部を受験するから、延べで300人
程度は合格する。
東大は別格にしても、早稲田・慶応は当たり前の世界。

早稲田に入学して、大学に行かなくなったのは、高校の時と
同じように、知った人間と嫌というほど会うからである。
ここが高校なのか、大学なのか。マジに錯覚する。
受験して合格して、大学に来たのではなかったのか...

3年間、厳しい勉強を強いられた。
当然ながらレベルが高く、特に数学は、教える先生よりは
生徒の方が優れている場合が多かったから、先生の方から
「他のやり方あるか?」と聞く場合も多かった。

とにかく富山中部にいた3年間の思い出は、授業を受けた
他は全く無い。
あたらの大事な青春時代ではあるが、自慢にもならないが、
喫茶店にも入ったことがない。
ガール・フレンドなどは、”受験にオンナは要らない”と口酸っぱく
言われていたから、全くの問題外。
要は勉強、また勉強の連続。
こうして、自分の人生の”空白の3年間”が形成されていった。

ところが最近になって、当時の同期の人間の活躍が目だっている。
ノーベル賞をもらった田中耕一は全くの別格で、年代も異なるが、
旧住友銀行→現三洋電機副社長や、地元の銀行の頭取+副頭取+専務、
また地元の電力会社の社長が同期生のほか、富山県知事、富山市長、
ついでに北海道知事も全て富山中部である。

ほんとに凄いというしかない。
皆苦労して大人になったというしかないが、
「富山と言えば何を思い出すか」の答が「富山中部高校」と言った理由は、
多少はお分かり戴けると思う。


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