不振のJAL(日本航空)の研究

JALの不振が言われている。
内外共に置かれた環境は厳しい。
全日空=ANAが順調な伸びを見せる中で、日本を代表する航空会社
であったJALが何故に伸び悩んでいるのか。

最初の海外旅行は、1970年代後半のNYへの出張だった。
羽田から成田への移行時期で、成田空港での送迎にも
パスポートが必要な時代だった。

小学校時代から「羽田から海外へ行く」というのが夢だった。
空港ロビーから2~3分歩いてタラップを上り、上りきったところで
おもむろに後ろを振り向いて、ロビーでの送迎客に手を振る。
そんな状況を夢見ていた。
成田に国際空港が移行して、それも果たせぬ夢となった。

しかし何故に成田だったのか?
都心から急行で1時間にメイン空港があるというパターンは
世界に例がない。
最近になって羽田を中心に、国際空港機能を拡充する動きが
広まっている。
では、あの激しかった成田闘争は一体何だったのか。
三里塚闘争とも言われ、70年代の学生運動の重要なテーマと
なった成田は、今やその影が薄れ始めている。
結論的には「政治+利権」というパターンで、高度成長時代の
日本独特の癒着の成せる技だった、ということになろう。

70年代後半から80年代前半に利用したのは全てJALだった。
尾翼についている”鶴のマーク”が誇らしげだった。
そのマークを見ると安心した。日本に帰れるッ!と実感した。

今から約25年前、NY→ロンドン→独→東欧という3ヶ月にわたる
長期出張旅行をしたことがある。
ユーゴスラビア・ベオグラードで開催される世界フォレックスという、
為替関係者が集う世界的な会議出席を絡めた長期出張には、
強烈な思い出がある。

独・フランクフルトからベオグラードに向かう予定が、現地でのチェック
ミスで、ザグレブでトランジットせざるを得なくなった。
冬季五輪開催で最近になって有名になったザグレブだが、当時は木材
の集散地である以外には全くの無名だった。

1:00PMにザグレブで下ろされて、5:00PMまで空港自体もクローズ。
野っ原のど真ん中で、全く人もおらず、当然ながらティーハウスもなく、
世界の果てにきたようで心細かった。
野っ原に荷物を枕に寝転び、空を見上げていたら、もう日本に帰れないッ
なんて考えてしまった。心細かった。
今考えれば、なつかしい思い出だが、その時の澄み渡った青い空を今でも
覚えている。

ドナウ川に面したホテルでの会議も終わり、ロンドンに戻り、ヒースロー空港から
JAL帰国便に乗り込んだ時のこと。
「お疲れ様でした」と”日本語”で声を掛けられた時、不覚にも涙が出そうになった。
「お疲れ様」というシンプルな単語があんなに染みたことはなかった。
これで日本に帰れるッ!!

日本を代表する航空会社はJAL=日本航空であった。
そのJALがいつから傾き始めたか。

業界では1985年以降の超円高時代に、1,000億円を超える為替差損が出たのが
最大の原因と言われている。
1985年9月のプラザ合意で、240円から始まった超円高は、1995年4月の79.75円
で一応の終焉を迎えるが、その中で弱体化していったのは事実のようである。
差損を取り戻そうと、料金を高く据え置いたまま、シートを狭くしつつ大量の利用客を
詰め込んだ。
海外旅行が盛んになり、他の航空会社を利用すればJALのサービスが如何に悪いか
は一目瞭然だった。余りに違いすぎた。
JALには今も昔も「乗せてやる」という意識が残っている。
与えられた空間がとにかく狭い。客は人工飼育のブロイラーではないのである。

いつの頃からか”スッチーブーム”が起き、現在も継続している。
「スチワーデスであれば全て美人」とするある種の仮装ブームの中で、制服を崇拝する
マニアが俳諧する世界が出来上がっていった。
キャビン・アテンダントと名を変えたが、そうした航空会社独特の優越感も、特にJALに
は残っているようである。

国営企業としての気質を残すJAL再建は簡単ではないように思う。
それは戦後50年以上にわたって蔓延してきた”国営”という意識を払拭するのは相応の
時間がかかるからである。

飛行機を利用し始めて約30年。
愛煙者にはつらい時代となった。
しかし海外への用事もあり、飛行機を利用せざるを得ない。
そういう場合でもできたらJALは避けたい。
それが今のJALの現状であろう。
 

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