「百年に一度の大恐慌」を検証する その(1)
2008年もカウントダウンに入っている。
相変わらずアッという間の1年だった。
今年の最大のテーマ、というより、世界の流行語大賞は「100年に一度の金融危機」。
その「100年に一度の金融危機」は「最悪の事態が実は最悪でなく、更に悪化し続ける」
格好で世界中に広がっていった。
1929年の金融恐慌時、米国の平均株価の最安値は11月の224㌦。
9月のピークからほぼ5割の下落で、多くの人々は底値と判断した。
それが3年後の32年7月には58㌦にまで下落する。
33年の米国の国民総生産(GDP)は29年の三分の二になり、4人に一人が職を失った。
今回の金融危機の要因となったサブプライムローン残高は1.3兆㌦。
住宅ローン市場の約1割。
2007年春のG7財務相・中央銀行総裁会議で、ポールソン米財務長官は
「経済全体を揺るがす問題ではない」と力説した。
次いで07年7月の議会証言で、バーナンキFRB議長は
「サブプライム関連の損失は1千億㌦(約10兆円)」と発言する。
ところが、
07年8月の仏BNPパリバによる傘下ファンドの資産凍結で始まった信用収縮は、
08年9月の米リーマン・ブラザーズ破綻に発展していく。
危機の波は時間と共に増幅していくことになった。
米金融機関による保守的な査定をベースにすると、米国で400兆円、欧米合計で600兆円と
されている。
うち金融機関の損失がこの半分として300兆円。
世界の金融機関は100兆円を処理しているものの、潜在損失の三分の一にしか過ぎない。
こうした米国発の金融危機をもたらした投資銀行の原点は1935年のモルガン・スタンレーの
開業からである。
銀行と証券の兼営を禁じたグラス・スティーガル法を受け、金融界を牛耳っていたモルガン財閥は
証券業を分離。
預金を集めて貸し出す商業銀行に対し、証券業を営む投資銀行が業務として確立した。
転機は1975年の株式手数料の自由化だった。
経営は揺らぎ、新たな収益源が必要となった。
辿り着いた経営モデルは「仲介手数料を稼ぐ」のではなく、
「自ら市場で資金を調達し、投資して利益を稼ぐ」ことだった。
少ない元手(資本)で大きく投資して利益を上げる「レバレッジ(テコ)」と呼ぶ手法は、
資本市場を活気づけ、収益のけん引役となっていった。しかしこの転換が危機の伏線となった。
投資の拡大で負債が膨らみ、財務体質が脆くなっていった。
そして次第にレバレッジには欠点が目立つようになる。
最大の誤算は証券市場規模拡大に対する見通しだった。
30年前には世界のGDPと同じ規模だった金融資産は、現在ではGDPの3倍を超える。
結局は金融資産の伸び自体が“バブル”だった。
そして「証券化で資産を小分けにすれば誰でも買える」という安直な論理が通じなくなっていった。
更なる誤算は資金調達の不安定にあった。
市場が委縮すれば資金の出し手はいなくなり、資金繰りが行き詰まることが米大手証券の破綻劇で
明らかになっていく。
(この項続く)
