2009年09月26日

美人の条件

もう10月だというのに、東京では夏が続いている。とにかく暑い。
未だにTシャツ一枚の若者や、半そでのサラリーマンがザラだから、
暑いのは自分だけではなさそうだ。
とは言え、陽が陰るのも早くなり、間違いなく秋には近ずいている。
物思う秋、メランコリックな秋、そして酒が美味くなる秋….。

世界有数の繁華街、東京・銀座も秋模様である。
何故なら、(季節を先取りする)女性のファッションが徐々に変化し出したからである。
最近では夏の真っ盛りにもマフラー(もどき?)だか、スカフーだかを首に巻く女性を
見かけたが、ここにきてその数が急激に増えている。

考えてみるに、真夏にマフラーのアンバランス(!)
人一倍汗っかきの自分にとっては「ザット・イズ・ザ・拷問」。
汗疹だらけになり、見るも無残な姿になるに決まってる。
だが見栄え優先(?)の若い女性たちは多少のことは我慢するらしい。でもなぁ…

夕暮れの銀座、言うところの“たそがれの銀座”にたむろう(?)のは9割方が女性。
気のせいか、発散されまくるフェロモンで、街全体の匂いまで違うようだ。
特に銀座プランタンから映画街、銀座・三越を中心とした4丁目交差点界隈は、
着飾った若い女性たちに占拠される。
“番茶も出花”の女性群は自信タップリ。背筋をスッと伸ばし、颯爽と歩いていく。
時としてソックリ返っているように見えることもある。
ところで、何でそんな自信タップリなんだ??と言いつつ、
道のど真ん中を余りに堂々と闊歩されるので、男性軍は道をお譲りしなければならない。

かくして、東京・銀座という世界有数の繁華街では、バッチリ・メークで、スキのないファッション
の女性が溢れ、日本の女性たちも格段に美しくなったとは思う。
だが、これまで幾多の美人を見てきた(!?)せいもあって、最近、美人という単語の解釈が
違ってきている。
自分の生涯の研究であるサイクル理論から言えば、
300日×5年=1,500日の(限られた)美しい時を要以上に飾りまくるといった、
切羽詰まって無機質な、表面だけのウツクシサには感動しなくなっている。
時が過ぎれば自然に朽ちていく、といった(相場と同様の)自然の流れを実感し出したのである。

必要に迫られて銀座のネオン街に足を踏み入れる場合もある。
いわゆる“クラブ活動”と言われる“飲み会”である。
そこに働く女性群は、その大半がこれみよがしに着飾り、訳の分からない名前(源氏名)を
名乗ってらっしゃる。
最初はそうした“深海魚”のウツクシサに感動したが、最近ではそうした人工的なものに
ウンザリし始めている。
トラッドな銀座のネオン街には、(映画で見るような)“花魁(おいらん)”のような雰囲気がある。
余りに“造り過ぎる”世界。限度を超えれば気持ちが悪くなる。

100年に1回の大不況の折、面玉の飛び出るほど値段の高い銀座での飲みでもなかろうが、
やむを得ずクラブ活動をしなければならない場合、極力“普通の格好”をした女性のいる店に
行くようにしている。
やはり「自然が最高」なのである。

「美人とは何か」「美人の条件とは何か」という難しい命題に、若輩者の自分が確たる答を
出せる訳もない。しかしこれだけは分かってきた。
顔とか、ファッションとか、化粧とかは美人の絶対条件ではないのである。
本当の美人とは結局は中身が伴った女性のことを指すと思う。
「姿・形が美しい」のが美人の条件ではなく、「人間が美人であることが大切なのだ」という
小難しい論点が、ようやくにして、薄ぼんやりと分かってきた。

秋の夜長、「人間が美人」の方々と、楽しくて美味しい酒を飲みたいものである。




リーマン・ショックの後遺症を検証する

2008年9月15日の米リーマン・ブラザーズ破綻から1年が経過した。
06年夏に米国住宅市場がピークを打ち、
07年夏、信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)問題が“100年の1回”と言われる
金融動乱を招いた後、その後直面する世界的危機を誰も予知できなかった。
そして今、危機は終了したと確信できない状態にある。

リーマン破綻が「ショック」と言われるのは、瞬く間に地球規模で広がった危機の起点だったからで
ある。
自己資本の30倍もの負債を背負って住宅投資に走ったリーマンの破綻は、資本主義経済の心臓部
に潜む暗部を曝け出した。

株価は大底を打ち、上昇に転じたとも見える。
ダウ工業30種平均は、今年3月につけた安値から5割上昇、危機感が薄れ始めている。
米証券大手・ゴールドマン・サックスは4~6月期に過去最高益を出し、
今年前半の1人当たりの報酬が2年前の水準に回復した。

ハイリスク・ハイリターンを好むウォール街の文化は、良くも悪くも「アニマル・スピリット」と呼ばれ
てきた。
「将来の成長を見越して金融機関がリスクを承知で投融資を手掛ける」のは、資本主義経済に
とって欠かせない行為である。
前向きな姿勢は凍りついた経済が動き出すためのエンジンには違いない。

しかし政府傘下の金融機関の巨額報酬まで表面化し、危機の元凶とされた複雑な金融商品の
販売も再開したとあっては、「どん底の恐怖を忘れ、蠢き始めた暴走の一歩」とも見えなくもない。
だが、世界各国の金融当局はそこまで愚かだとは到底思えない。

そして米国の雇用悪化に歯止めがかからない中、資金供給を含めた金融緩和が長引くとの見方
から、巷間では「悪性インフレ到来」が頓着され始めている。
近代経済で言われる「大インフレ」の時代とは1970年代後半を指す。
80年末の米物価上昇は年率10.5%を記録。当時のボルガーFRB総裁が強烈な金融引き締めで
インフレを退治すると、81~82年には不況に陥り、失業率は11%に上昇した。

FRBが現在実施している金融緩和の規模を考えれば、当時のような大インフレが来てもおかしくは
ない。
そうした指摘は以前からあったが、景気に薄明かりが見えてくると、より一層現実味をもって語られる
ようになってきた。

こうした状況下で、金などの「実物資産」への分散投資も注目されている。
複雑な仕組みの金融商品で痛手を蒙った投資家の一部が「シンプルな手法の商品投資に回帰した」
というわけである。
「困った時の金」伝説の復活の様相である。
しかしこうした動きは米英当局による投資マネーへの規制強化の流れにもつながっている。
単純に「1+1=2」の図式にはならないのである。

リマーン・ショックから1年。
「強弱材料が混在し、的確な方向が掴めず、誰にとっても居心地の悪い状況」
「景気が本格的に立ち直る時にはこうした板挟みになるのは自然」と、
下手にジタバタせず、悠然と構えるしかない。


2009年09月20日

イチローの新記録達成と、日米価値観の相違

現地時間9月13日(日本時間14日)、
米大リーグ(以下MLB)・シアトル・マリナーズのイチロー外野手(35=本名鈴木一朗)は、
テキサス州アーリトンで行われたテキサス・レンジャーズとのダブルヘッダー第二試合で
遊撃に内野安打を放ち、MLB史上 初の9年連続の200安打を達成、
1894年~1901年にウィリー・キーラーがマークした8年連続を108年振りに更新した。

イチローの名前がMLBで確立したのは2004年、
1シーズン262安打を記録、それまでのジョージ・シスラーが持つ257本を抜いて
84年振り(当時)にMLB記録を更新した時からである。
しかしMLBでは、首位打者のタイトルがある打率に比べ、チーム事情等により
ばらつきのある安打数は、長らく記録を争う項目に取り上げられてはこなかった。

MLBでは1998年まで17年にまたがる2632試合の連続出場をしたカール・リプケンの
記録があるが、「連続性」「継続性」をテーマにした記録を余り注目(称賛)しない
傾向にある。年間162試合行う現在のMLBでは、
「全試合に出場することは、商品としての選手の寿命(=価値)を減少する」との考え方
(=ビジネスモデル)が徹底しているからである。

今回の新記録に号外が出るなど、日本中が大騒ぎしているが、
米メディアの報道は意外に淡々としている。
NYタイムズでは、米国では本塁打などの長打が好まれる傾向を指摘、
内野安打が約3割を占めるイチローは評価され難いと論じている。
記録に対する価値観の相違、および外国人による記録達成を良しとしない側面は否めない。
それは韓国・イ・スンヨプ(現巨人)の年間56本のアジア本塁打記録を、
日本が無視したのと同じではある。

安打数に関する記録としては、ピート・ローズの(通算)10回の200安打、
および通算4,000安打などがあるが、一連の安打数という項目に関しては、
米国民はもはや“諦めの境地”には違いない。

WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)でも日本に二連覇を許し、
米国の元祖・野球大国の名が揺らいでいる。
9月11日(現地)のNYヤンキース・デレク・ジーター内野手の、
ルー・ゲーリックが持つ球団最多安打2721本の更新を、殊更に必要以上に騒いでいる。
多分それも日本(の野球)に対する“悔しさ”なのだろう。

実は自分もイチローの「走りながら打つ」スタイルが余り好きではなかった。
ドカンと打てよ、ドカンと!特大の本塁打が野球ダッ!! それが野球の醍醐味ダッ!!
実のところは、北陸の星・ヤンキース55番・松井が、名古屋のイチローに負けるはずがない…
などと、馬鹿馬鹿しいくらい(小さな世界での)地域根性を剥き出しにしていた。

しかし考えてみれば、イチローの“オンリーワン”のスペシャルな技術こそ、
新時代の混沌とした世界には必要であろう。
ガタガタ言うのは(負け惜しみに近い感覚で)既存の常識論を滔々と述べる者ばかりである。

かくしてイチローは、10年連続200安打や、通算4,000安打もやってくれると思う。
本場・米国の多少の誹謗中傷があっても、イチローの「連続性」および「継続性」を旨とする
記録は、今後100年経っても破られない永遠不滅の燦然たる記録だと思う。

2009年09月13日

ブザー・ビート

衆院選挙を中心に、小難しい内容ばかり書いていたので、少々リラックス。
TV番組の論評など柄に似合わないかもしれないが、「月9ドラマ」について。

ブザー・ビート。「試合終了のブザーと同時にシュートする」というバスケット用語。
このブザー・ビート(副題・崖っぷちのヒーロー)は、主演・山下智久、
ヒロイン・北川景子が演じるフジ系月曜9時からの通称「月9ドラマ」。

社会人バスケットチームに所属する主人公と、バイオリニストを目指すヒロインとの
青春ラブストーリ。
日本ではメジャーではないバスケットというスポーツと、バイオリンという複雑で
難しい(と言われる)クラシック界を結びつけた、一見アナクロに近い設定のこのドラマを、
最初は期待しないまま見ていた(と言うより、正確に言えば流していた。)
しかしつられて毎週見ていくうち、近年まれに見る、直球どまん中の「月9ドラマ」と
思うようになった。

お互いを気にしつつも、交際中の恋人がいるという足かせ、強力な壁となる恋敵、
惹かれあいながらも進展しない恋模様...。
不必要で不自然な“ややこしさ”が絡み合う「ジス・イズ・ザ・月9」って感じのドラマに
なっている。

ヤマピーの愛称で呼ばれる今風イケメンの代表・山下智久の優柔不断さや、
元々は悪女役が似合いそうな北川景子の(不自然な)不器用さを浮き立たせる演出に、
少々ぎこちなさも目立つが、「あえてベタ」を強調したところが新鮮である。
「全てやってみたけどダメ。一旦原点に戻ろう」とする“温故知新”の精神が伝わってくる。
山下智久も北川景子もたまたま(同じ)明治大学を出たばかりで、派手さばかりが目立つ
彼らの実態は、実はこんなもんかと思わせたりする。

ただ脇役陣はキッチリ固まっている。
まず相武紗季。チアリーダ-で職場の華、自分がカワイイことを知り尽くし、
服装も立ち振る舞いも徹底的に男ウケ狙いの計算ずく。
彼氏の山下がパッとしないと、陰でくわえタバコで「チッ、ヘタレ!!」と舌打ちしたり、
他の男と関係を持ったりする。
そんな裏表のあるブリッコ女を気持ちよく、見事に演じている。
これって(噂の)長瀬智也効果か(!?)

また貫地谷しほり。
本当は主役を張れるだけの能力は十分あると見るが、今回はお団子ヘアにおせっかいという、
典型的「ヒロインの親友役」を、黒子に徹して好演している。
その他、「海猿」で主役を張っていた伊藤英明が、バスケチームのコーチとして“大人の味”を
出している。

そして主題歌がいい。B’zの「イチブトゼンブ」。
Jポップには文科系と理工系があると思う。
理工系の代表はこのB’zであり、文科系の代表は長淵剛。
文科系はベタな演歌に近い感覚であり、一方理工系は自分本位の(意味不明の)歌詞の
設定をしがちである。
解んなきゃ解んなくてもいい、といったある種“投げやり”のスタンスである。
この「イチブとゼンブ」も、相変わらず理工系Jポップにありがちな、“翻訳不能”な題名、
および歌詞である。
少々難しく言えば、「ひとつの歌詞の中に重層的にテーマを設けて人間心理を焙り出し、
更には結論を聴き手に委ねる」という理工系・稲葉浩志(横浜国大出)の姿勢は相変わらず。

ただB’zのアメリカンハードロック調の音色は、とにかく聴き手を元気にさせる。
またおなじみのギリギリ感を満喫させる歌唱は、まさにB’zの世界である。
なんだかんだと文句を言っても、B’zの音楽は良質だと思うのである。

かくしてこの「ブザー・ビート」は、B’zの「イチブトゼンブ」という強力な援護もあり、
山下智久の代表作になるかもしれないな、などと思っている。

2009年09月12日

「ドブ板選挙勝利」の影響と今後の日本

8月30日の衆院選挙から2週間が過ぎた。連日連夜の報道で少々食傷気味ではある。
そして何気に気忙しく、バタバタしている。
しかし今後の日本、引いては為替・株式等、今後の相場動向を考える時、今回の選挙結果を
冷静に分析しておかねばならない。
今回は「田中流ドブ板選挙の影響」について考えてみたい。

菅義偉(すが よしひで)・自民党選挙対策副委員長は自民大敗の要因を聞かれ、
「自民党の賞味期限は小泉政権誕生前に終わっていたのかもしれない」と述べた。
確かに「自民党をぶっ壊す」と宣言した人間が総理・総裁に選ばれること自体が、
自民党の賞味期限が切れていたということにはなる。

「政党の賞味期限が切れる」とは、
その政党に「人材がいない」「人材が集まらない」「人材が育てられない」
のないないづくしの状態になったということである。
党を率いるリーダー不在だけではない。
気がつけば、ひと癖もふた癖もある策士、寝業師、戦略家の類の、少々“きな臭い”人種もいなく
なっていた。

自民党に人材がいなくなった理由は明確である。
ポイントは「小選挙区制」「派閥の解消」である。
県(都)議会議員並の小さな選挙区の中で、政治家の生命をすべて決定してしまう小選挙区制に
おいては、ドブ板選挙の基本に徹するか否かで勝負が決まる。
結局、県(都)議会議員レベルで国政を託す人物を選択するのが現在の日本の国政選挙である。

政策演説抜きでひたすら選挙区の隅々まで走り回って、握手とお辞儀、そして土下座をも厭わない
ドブ板選挙戦術は、故田中角栄元首相が編み出した戦術である。
今回の衆院選挙に、田中流直伝の選挙術を持ちこんだのは家元直系の愛弟子・剛腕・小沢一郎
だった。

自民幹部の選挙区に、小沢ガールズと揶揄された美女軍団が送り込まれた。
巷間で多用される(女性に対する紋切り型の)形容詞ではなく、タレントと見紛うばかりの美人揃い
だった。
そうした美女軍団は、流儀に忠実に、かつしつこく田中流戦法を駆使し、大勝利した。
あたかも(忍者の)“くの一”戦法のごとくであった
田中流選挙術で勝ち上がった数、150人超。

また派閥の解消も自民衰退の要因となった。
(良い意味でも悪い意味でも)派閥内の権力争い通じて、中小グループを率いることを学び、
その過程で総理総裁への声望を勝ち得ていくという「汗をかく」システムが機能しなくなった結果、
自民党の中に次世代あるいは次々世代の総理総裁候補が育たなくなっていった。

結果的に「政策抜きの政権交代」を連呼した民主が大勝利した。
しかし民主党を含む日本の野党は、口先だけの反論はできても、責任政党として国政を仕切った
経験がない。
同様のコンテンツで出発した細川政権は8か月の短命で終わった。

官僚政治打破とのスローガンが掲げられている。
しかしドブ板手法で勝ち上がった議員に、官僚以上の知識・能力があるとは思えない。
「ドブ板選挙をやれば勝てる」、あるいは「勝てた」という事実が日本の存在を薄っぺらなものにし、
将来を暗澹としたものにしている。

今回の衆院選挙で日本国民に与えられたテーマは、
「自民が完全にぶっ壊れた」ことで、「日本がぶっ壊れ始めた」可能性を考えることである。


2009年09月05日

"風が吹いた"後の日本に待ち受けるもの

8月30日の第45回衆院選挙。
現住所に住まいして約15年。初めての光景に出くわした。少々驚いた。
投票所となる小学校の、いつもの体育館前に投票を待つ行列が100メートルを超えた。
目立ったのは車椅子の後期高齢者と、有権者としての初投票とおぼしきやや紅潮気味の若い女性。

歴史的な場面に遭遇していると実感し、ほぼ徹夜で選挙結果を見守った。
民主の歴史的大勝利。自民の地滑り的大敗北。まさに劇的だった。
そして、1955年の保守合同以来、形を変えては命脈を保ってきた自民党政治に終止符が打たれた。

戦後日本の成長モデルそのものと言えた自民党政治に、有権者は強烈な「ノー」を突きつけた。
「今の自民じゃ到底だめだから、(とりあえず)民主にやらせてみようか」という冷めた
部分があったものの、96年の総選挙から導入された小選挙区・比例代表並立制なって以降、
日本の有権者の意志が的確に伝わった初めての選挙だった。

“4年前の選挙の逆バージョン”とも揶揄されている。
しかし4年前の選挙は、
テーマは「郵政民営化に賛成する改革派と、それに反対する勢力に分類する」ことであり、
全体の構図が「自民対民主」ではなく「自民対自民」だった。
そして「小泉劇場」と言われたごとく、小泉純一郎首相(当時)の独り舞台であり、
疑似政権交代だった。

そして一時の熱狂が冷めた後、これまでと何等変わらない自民党政治が続いていった。
小泉政権を継いだ三代の御曹司内閣は、まさに淡々と、戦後の自民党政治を踏襲した。
どこかに浮世離れした感覚を持たせられたまま、的確な施策も打ち出されない中で、
日本国民はこのままズルズル沈んでいくような不安感に付き纏われるばかりだった。

かくして小選挙区制の怖さを初めて知ることになったが、巨大与党となった民主党に不安が
ないわけではない。
今回の選挙を演出した“壊し屋”or“剛腕”と呼ばれる小沢一郎という強大な後ろ盾が梯子を外せば、
民主党政権は一気に崩壊する。
小沢一郎という希代の政治屋の性癖、あるいはこれまでの“実績”を考えればその可能性は当然
考えておかねばならない。

大きな問題は、“とりあえず民主に”とした民意が民主党から離れた時、
「自民党が健全な野党としての受け皿として残っているか否か」である。
小選挙区制は「政権交代可能な二大政党制」が基本である。
今回の自民惨敗は身から出た錆びではある。
しかしここまで壊滅的な敗北を喫した自民が、健全に立ち直りができるか否か。
日本国民はその点を明確に認識しているのであろうか。

21世紀に入って以降の日本は、世界からは確実に小さく、頼りない存在になりつつある。
第二次世界大戦を経て、20世紀後半からの成功体験から抜け出せず、斬新で先進的な施策を
講じることができないままになっている。

“山が動いた”or“風が吹いた”のは事実である。
しかし肝心のマニフェスト(政権公約)には高速道路の無料化やら、子供の手当など
(選挙に勝たんがための)“バラマキ”が羅列されている。
今回の民主大勝利は、日本国民がバラマキに賛同したわけではない。
日本国民各自が将来を見据え「とにかくやらしてみよう」との“お試し”なのである。

かくしてここ2年の日本は、(相場で言う)“(方向感のないor安定性のない)荒れ相場”である。

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