日本的「想定外」の検証
まず「想定外」とは一体どういう状況なのか。
おおよそ次の三つのケースに分けられる。
①本当に想定できなかったケース
②ある程度想定できたが、データが不確かだったり、確率が低いと見られたりしたため、
除外されたケース
③発生が予測されたが、その事態に本気で取り組むと投資額が巨大になるため、
楽観論を掲げて想定の上限を線引きしてしまったケース
これまでの災害事例を見ると、ケース①は極めて少ない。
②か③、あるいは②と③の中間あたりのケースが大半を占めている。
ところで、なぜ歴代の大災害が現在にまで言われ続けているだろうか。
それは
「起こりうる可能性のあるものは、確率が低くても現実には必ず起こり得る」からである。
つまりは、
「地質学の調査データや古文書の記録に凄いものがあれば、それを重視しなければ
ならない」ということになる。
振り返って、日本の行政・企業・技術者の世界では、このテーマについてはタブー視し、
無視し続けてきた。
根幹にあるのは
「そんな可能性を考えれば、予算がどれだけあっても足らない」という論理であった。
結局、起こる可能性がある中で、確率の低いものについては除外して、
経済的に対応可能な上限で線引きをし、それは想定される“最大なもの”としたのである。
そしてその上限を上回った場合には「想定外」という一言で弁明する。
それが日本の行政・産業界、そして大半の技術者の思考の枠組み(パラダイム)だった。
一連の「想定外」の問題を、これまでのように
「そこまではとても考えられない」
「そこまで想定に入れたら設計できない」というパラダイムの中で起きたのが、
今回の東日本大震災だった。
当然のように、手のつけられないような無残な崩壊状態となった。
それでは、「(日本的な)想定外」の問題を解決するにはどうすればいいか。
考えられる方法としては以下の三点である。
①「まさか」というご都合主義から決別する。
②想定規模を線引きする発想から脱却、可能性のあるものを最大にして、
「できること」「できないこと」を明示する。
③基本的な構想に、既存の常識論を入れない。
逆説法から考えれば答は簡単に出てはくる。
しかし一見簡単そうでも、この解決法は簡単にはクリアできない。
今回の大震災で分かったのは、
日本人の「忍耐力・勤勉さ・正直さ・責任感・分かち合いの精神・宗教心」等、
世界に誇れる倫理性がある一方で、
マニュアルや法規がないと、実践的な思考が動かなかった点である。
結局、今回の大震災はまず、(馬関戦争・薩英戦争に敗れた)幕末、
太平洋戦争敗北に次ぐ「第三の敗戦」と位置付けるしかない。
従って、一旦原点に戻る、つまりあらゆる既存の常識を排除した上で、
頭を切り替えてスタートをするしかないようである。
