ふるさとの話をしよう(2)「滑川のほたるいか」の話

自分の実家界隈は、明治時代から昭和40年代(1970年代)あたりまで、“滑川銀座”と
称していた。
銀座って??と言われる(笑われる)かもしれないが、
銀座という称号は、とありあえずはその区域最大の繁華街である、という意味である。

従って、滑川銀座に来れば、たいがいの日用品が調達できた。
その通りが通学路になっていたことから、明細を全部空んじることができる。
肉屋・魚屋・八百屋、菓子屋×2、呉服屋・洋服屋、本屋、薬局、電気屋、荒物屋、
理髪店×2、骨董屋、時計屋、傘屋、家具屋、質屋、内科医院・歯科医院、郵便局、
旅館、酒屋、飲み屋、銀行×3、そして映画館×2(!?)までもが揃っていた。
ところが、スーパーという米国発の最新システムが流入する1980年代から、
そのオールスターズの街から櫛の歯が抜けるように商店が消えて行き、今はものの見事に、
1軒の商店もなくなった…哀しいことに、自動販売機すらない。

その全盛期、祖母が寿司職人をどこからともなくスカウトし、実家の隣のスペースを
貸し与え、寿司屋を開業させた。
そして当時、実家の裏にあった戦前建築の木造三階建ての離れを住宅に供したのである。
祖父が地元の漁業組合長をしていた関係から、安価で魚を提供することができたからである。
それが“福寿し”である。

現在の福寿しは、その三階建ての離れで生まれた二代目、タカシが継いでいる。
当然ながら、タカシの小さい頃から知っていることにはなるが、タカシがもの心が
つく頃は自分が大学生になっており、余り接点はない。
親しかったのは今は亡き、末弟(三番目)である。同じ高校の野球部に在籍した経緯もあり、
何かにつけて、実の弟のように可愛がっていたらしい。

あんな人通りの絶えた街、過疎化のモデルパターンと言える旧滑川銀座で、
本当にやっていけるんかい、などと思っていたが、とにかく必死こいて続けている。
高校時代の同級生だった今の奥さんと結婚してから顔色が変わった。
一度、少々酔ったタカシにガツンと言われたことがある。
「本当に滑川に帰る気だったら、もっと真剣に、本気になって取り組んで下さいよ!!」
「オレにも家庭ができた。守らなきゃなんない。キレイごとはもう結構だ!!」

そのタカシが5月2日付の地方紙で、カラー写真つきの全五段で紹介されていた。
今までに見たこともない、ニコニコ顔のタカシが載っかっている。
「ほたるいかのちらし寿し」を発売した滑川・福寿しとある。
オオッ、タカシ、やったじゃん!宣伝効果バツグンだぜよ!

5月3日、いつものようにバランタイン12年のボトルを小脇に抱え、フラッと寄ってみた。
タカシには、自分の好きな銘柄は自分で持ってくるようキツく言われている。
「おう、タカシ!チョー有名な“ほたるいかちらし”食わせろよ!」
「残念!!ぜ~んぶ売り切れで~す!!」

いつの頃からか、東京・築地の有名寿司屋では、デカイ短冊に「滑川のほたるいか」と
表示されるようになった。単なる一般名詞の「ほたるいか」ではない。
“滑川の”という形容詞が絶対条件となってしまったのである。
そして通であればあるほど、滑川を「なめりかわ」と言い間違わなくなった。
すべりかわなどと読む者は、とりあえずは築地に来る者にいなくなった。
「滑川のほたるいか」が完全に“全国区のブランド”になったのである。

帰京した翌日の5月7日(土)、BSの巨人・中日戦を見ていた。
NHK・BSの野球中継は、CMもなく、また最後の最後までやるので、ほんと見易い。
とにかく野球を楽しめる。
そんな中、ごくごく親しくしている滑川市役所の重鎮・S氏からのTEL。
「青柳さん、“滑川のほたるいか”を日テレの全国版でやってる!!」

急遽、4チャンネルに入ると、なるほど、「旬ホタルイカ 春味パスタ&絶品ピザ」
と題した番組が放送されてる。
ゴールデン・タイムの全国版。こんなの自前でやれば二千万円也のカネが消えてく…

何でもいい、我が滑川が認知されれば…
これからも“隠れ応援隊”として滑川を宣伝しよう!!と心に誓ったのであります。