「察しの文化」の弊害

日本的な言い方の中で、命令形式(=禁止の形式)を避けながら、
一方で暗黙の協力を求める「(相手の気持ち)を察しろ」とする言い方がある。
「ご遠慮願います」
「ご理解とご協力をお願いします」
といった類の言い方である。

5月6日夜、
菅直人首相が突然記者会見し、中部電力に要請した、浜岡原子力発電所の操業停止。
菅首相自身が法的根拠がないと認める「お願い」である。
結局中部電力はその「お願い」を、「国の指示・命令」と判断して受け入れることになった。

千年に1回と言われる東日本大震災に関し、この「お願いの手法」が乱発されている。
5月13日、枝野官房長官は突然、金融機関に対し東京電力の債権放棄を要請している。
政府も一肌脱ぐから銀行も協力せよとの(実質的な)“強制”である。

そして枝野官房長官は、福島原発周辺20㌔~30㌔区域の状民に対して
「自主避難を積極的に促進する」との言い方も連発している。
自主避難って何?
結局は(国としての)命令はしないけど、「お願いする」というパターンである。

この自主避難に関しては、4月13日、
「避難地域は当面住めないだろう。それが10年になるのか20年になるのか」
とのコメントが、菅首相の発言として、内閣官房参与の口から伝わり大騒ぎになった。
結局は否定されたが、情報を十分に提供せず、住民にギリギリの選択を強いる格好と
なっている。

農産物の出荷自粛要請も、夏の節電も構図は同じである。
「ただちに影響はない」「安全だが念のため」という説明で、
政府は生産農家にゲタを預けようとした。
政府が不用意な発言をすれば風評被害は不可避なのは明らかだった。
そうした状況の中で、農家に対して作付すべきか、断念すべきかを強いたのである。

節電に関しても「それ、本当に必要ですか?」に代表されるフレーズで、
消費者に決断を強いている。
これまではオール電化を高らかに謳い、何でもかでも電気を使えと消費者に迫ったのは
誰だったのだろうか。
こうした自己本位の勝手な論理の中で、「自粛と委縮の悪循環」が起き、
街ばかりでなく、東電管内の人の心をも暗くしている。

大震災が起きて以降日本国民は、被災地を思い、事態の深刻さを理解しながら、
一連の「お願い政治」に黙々と協力してきた。
あからさまな政治批判も少なかった。
それが世界中から、日本人の美徳とも称えられている。
ただこのまま「お願い&ご理解」を繰り返す中で、的確な政策が出されないなら、
日本全体が進むべき方向をも見失ってしまう。

「市民派」を標榜し、長い野党暮らしの中で権力の横暴を批判してきた菅首相は、
一旦掴んだ権力を離すまいと、それだけに必死になっているように見える。
何か空しくなるような光景である。

こうした未曾有の危機には、一見横暴とも見える断固とした政策が示されてしかるべきである。
残念ながら菅首相は千年に1回の危機に首相の座にいるべき人物ではないようである。
結局は同じセリフにならざるを得ない。
「救世主はいずこに??」