2011年06月28日

さらば!!ハイライト

3月11日の東日本大震災から100日が経過した。
復興がなされているのか、いないのか。
この機に及んでもパフォーマンスばかりが先行する菅政権に、イラつきの時期は過ぎ、
あきれ果てて、考えるのを止めてしまう“あきらめ”の毎日が続いている。

首都・東京も、喉元過ぎれば何とかで、一応平静な生活が戻っている。
水はある、ティシュはある、インスタントラーメンや納豆・豆腐も帰ってきた。
通勤時間圏外のダイヤは間引きはされているもものの、交通も一応は元に戻った。
まだ薄暗い感じは否めないものの、銀座もとりあえずは銀座の風情を取り戻している。
梅雨入りで、余りの蒸し暑さに、おそるおそる空調(冷房)にスイッチを入れてみたが、
今のところは正常に動いている。

そしてタバコもほぼ正常に買える状態になっている。
4月後半から、国産タバコが全く買えなくなった。
近所の知り合いのタバコ屋で、無理を言って仕入れた2カートン(20箱)を大事に、
大事に吸ってきたが、それも尽きる頃、我がハイライトとお別れの時が来てしまった。
今度はいつ入荷するか分からない、と言われてしまえば仕方のないことだった。

最初に吸ったタバコがハイライトだった。
吸いこんだ途端、頭が真っ白になり、クラクラした。
これがタバコの世界かよッ~!!
その新鮮な感覚は今でも強烈に覚えている。

それからうん十年、ハイライト一本槍だった。
スカイブルーのパッケージのハイライトは、いつの頃からか
“土方のタバコ(=肉体労働者のタバコ)”と言われ始めたが、
勝手に言ってろ!!キツいけど、美味しい、それがハイライトだ!!
それがオレの人生だっ!!
誰に何を言われようと頑固に吸い続けた。
ハイライトは(ある意味)自分の人生そのものだった。

ただタール17ミリという強烈なハイライトの凄さは、最近部屋を変わってみて、
心底驚かされた。
部屋の壁が真っ黄色どころか、焼け跡のようになってドス黒く変色していた。
最盛期には1日平均50本、単純計算で1ヶ月1,500本、1年で18,000本、
そして17年で306,000本の威力はすざまじいものだった。
そんな膨大な量の煙が自分の体内を通り過ぎっていった…

5月も下旬にもなり、いつものコンビニにタバコを買いに行った。
馴染みの店長がニコニコ顔で、
「青柳さん、入荷しましたよ!!1人3箱の限定版ですけど」って、
スカイブルーのパッケージを指差した。
オオッ!ハイライトか!戻ってきたんか…

1ヶ月振りのハイライトだった。
吸ってみた。キツかった。咳き込んだ。こりゃ、ダメだわ…

それまでの期間、海外に行った際に吸っていたマルボロに変えてしまっていた。
マルボロのタール度は8ミリ。かたやハイライトは17ミリ。
勝負(!?)は最初から見えていた。体が受け付けなくなっていた。

自分の人生そのものだったハイライトを止めることは、つまりは自分の生き方を変える
時期に来ているという意味なのかもしれない。
好むと好まざると、そうした大きなテーマに真正面から向き合わなければならない時期
のようである。
たかがタバコ、されどタバコ。残念ながらこう言わざるを得ないようである。

さらば!!ハイライト。長い間ありがとう。
これからも自分なりに目いっぱいシッカリ生きていくよ。


2011年06月25日

「鳩・菅30年の歴史」の研究

菅政権の惨状は目を覆うばかりとなっている。
民主党という政党はなぜにこのようになってしまったのか。
その原因を探るには鳩山由紀夫と菅直人という政治家の、これまでの30年の歴史を
おおまかになぞることが必要なようである。(以降敬称略)

最初の出会いは1980年。
社会民主連合から衆院に初当選し、菅の母校である東工大に講演で凱旋した時とされている。
当時の鳩山は東工大の助手だった。
その鳩山も自民党から86年に衆院に初当選する。

94年に菅は新党さきがけに入党し、鳩山も追随する。
さきがけでは鳩山は代表幹事、菅は政調会長をとして党三役を分け合うことになる。
その二人が急接近するのは96年秋の旧民主党・結成時で、二人は共同代表に就任。
これが「第一のエポック」である。

98年4月、前年末に崩壊した新進党から多くの議員が旧民主党に加わり、
新しい民主党が発足する。
自民党に次ぐ第二党になったものの、政権交代にほど遠かった。
その民主党が転機を迎えるのは02年9月の代表選で鳩山が三選を果たして以降である。

選挙後の人事でつまずいた鳩山が起死回生策として打ち出したのは小沢・自由党との
合併構想だった。
その鳩山批判の急先鋒となったのは菅だった。
02年12月、鳩山は党内混乱の責任をとって代表を辞任。
後任は必然的に菅だった。

その菅は、代表に就任するや豹変、小沢・自由党との合併交渉を推し進め、
03年7月に合意、同9月に正式に調印する。
これが「第二のエポック」である。

その民主党が念願だった政権交代を実現するのが09年9月。
鳩山が首相、菅が副首相に就任。
その鳩山政権は「政治とカネ」「沖縄普天間」問題で行き詰まり、
菅が民主党・二代目の首相に就任する。
これが「第三のエポック」である。

だが10年7月の参院選で惨敗すると、10年9月の代表選では菅と小沢の一騎打ちとなる。
結果は鳩山・小沢を敵に回した菅が勝利することになる。
この代表選を境に、自信を深めた菅と「小鳩(小沢+鳩山)」との溝は修復不可能に
なっていった。

そして11年3月11日の東日本大震災および福島原発事故を経て、
菅内閣不信任決議案の対応を巡って民主党の分裂危機が訪れる。
これまでの流れを見れば、鳩山のツメは甘く、菅が実を取ってきてはいる。
今回の不信任決議案否決も同様だった。
鳩山が「菅はペテン師」と詰っても、所詮は“後の祭り”だった。

鳩・菅の30年をラフになぞってきてみたが、
冷静に考えてみれば、「袈裟の下に鎧を着たまま、切った、切られたの世界」が続いている。
まるで劇画の世界である。

結論的には「政治の世界は所詮は権力闘争の場」ではある。
ただ今後の日本において、今回のような国家存亡の時を迎えても延命を図る菅直人、
そしてそれを取り巻く鳩山由紀夫、小沢一郎という政治家を必要とするであろうか。
考えれば考えるほど空しさだけが残る展開ではある。

2011年06月18日

「日本人の弱点」の研究

3月11日の東日本大震災から3ヶ月が経過した。
しかし復興は遅々として進んでいない。
政府与党・民主党の危機管理能力が問われているが、根幹では日本人の考え方、
特に国家上層部の考え方が太平洋戦争から一向に変わっていないのではないかとの
論議も盛んになっている。
「日本人の弱点が変わっていない」との論議である。

まず日本人には、危機に際して「起きて困ることは、起こらないことにする」悪癖がある。
原発事故という国民の生命と健康に関わる一大事で、
「実際に起こっているのに、起こっていないこと」にしてしまっている。

「原発は絶対安全」という発想は、「戦艦大和は絶対に沈まない」という論理と同じである。
元々日本人の技術意識には完璧を求める傾向が強くあり、
「大和自身の持つ46㌢砲弾の直撃に耐える戦艦」というのが
戦艦・大和の設計上の最大のポイントであった。

あくまで計算上とは言え、最大のポイントをクリアする結果、「完璧である」となる。
その瞬間に、それを破られた時のことを考えなくなる。
一方で米国の防御思想は、一定以上の打撃を受ければ、損害が出るのは当然と考え、
損害が広がらないような対応や被害対応の訓練を行っていた。

日本人のいう完璧とは、所詮は「予算内での完璧」であり、
日本の原発も「『完全に安全』と割り切らないと、原発は建たない」の論理であった。
そして、そうした「完璧」を更に完璧にするためには、国家の超エリート集団による
情報の遮断・独占がついてまわった。
太平洋戦争においても今回の原発事故においても頻発された、いわゆる「大本営発表」と
いう形式である。

大本営発表は「物事を容易にできる」とする妄想をベースに、
「現実に立脚しない安易な希望的観測を事実化する」ことによって、
“一時凌ぎ”を繰り返してきた。
「大変だけど何とか大丈夫」という話を繰り返す。
今回の原発事故で新事実が次々と出てきたのを見れば分かる通りである。

基本的に日本では「絶対安全」「不沈戦艦」「無敵皇軍」「絶対国防圏」等の熟語が
頻繁に使用されてきた。
そしてことごとく崩されてきたのが日本の歴史だった。
“絶対”という言葉がついた瞬間、手を抜くようになってしまう。
絶対が崩れた時に対応すべきシステムもない。
結果的に、神風特攻隊のような個人の能力頼みになってしまう。

太平洋戦争当時の首相兼陸相の東条英機と、現在の菅直人首相の対応の仕方が、
エゴイズムとスタンドプレーが先行することから、酷似していると言われる。
そういう国家の指導者の元で戦争になったり、千年に1回の大震災が起きたのは
日本の不幸というしかない。

歴史的な教訓とは何か。
現在の日本においては、
「歴史からは何も学んでいなかった」というのが教訓になっている。

以降の日本は、世界中から「今回の東日本大震災を歴史的な教訓とするか」
が問われている。

2011年06月12日

佐渡裕という指揮者の話

自分の世界に、クラッシックという音楽の世界は、過去も現在も無縁だった。
ただ将来は、と聞かれたら、多少はニュアンスが異なってきている。

自分が正真正銘・ホンマ物のクラシックの世界に触れたのは、1980年代前半のNYだった。
親しい知人が「青柳さん、たまには違う世界は如何??」と誘ってくれたのは、
NYリンカーン・センターでのクラシック・コンサートだった。

NYのコンサートの世界は、開演前に(軽く)1杯飲ってから、というのが常識。
ただ自分にとって軽くとは、「ウィスキーのハイボールを2~3杯」が当たり前。
で、調子こいて、5~6杯は飲っていた(と思う)。

さて開演となった途端、クラシック一流の雰囲気が、一気に眠気を誘った。
壮大にしてごくごく静かなリズムは、眠りには絶好な、安楽な世界へと導いていった…
結局シッカリ聞いたのは、開演前の盛大な拍手と、そして終わった後のブラボー!!と
立ち上がって叫ぶ聴衆の声だけだった。
「しゃ~ね~な、青柳さんは!!」との知人の声と共にリンカーンセンターを後にした。

演奏がNYフィルハーモニー管弦楽団であり、指揮者はレナード・バーンスタインという、
希代の世界的な名指揮者であったことが後になって分かった。
そしてそのコンサートーのチケットがなかなか取れないことも…

その話は共通の友人間では今でも“伝説”となって伝わっている。
「知らないってことは如何に“怖ろしい”ことであるか」の喩えとして…

4月11日(土)、お笑い番組に飽きたところで、NHK・BSプレミアムに入ったら、
佐渡裕という、日本のクラシック界では注目の指揮者の特集を映し出していた。
「佐渡裕 ベルリン・フィルへの挑戦」とある。
オオッ!!とばかり見入ってしまった…

何故クラシックに無縁の自分が、佐渡裕(さど ゆたか)を知っているのだろうか。
それは草食系で神経質そうな指揮者が多い中で、佐渡裕はまるでアメラグの選手の
ような体格・風貌だからである。
目分量だが185㌢90㌔、といったところだろうか。

その大男が、まるでスポーツをするような感覚でタクトを振る。
時間が経つごとに、着ている衣装がシワくちゃになり、汗が飛び散りまくる。
そんな佐渡のパフォーマンスに、これまでにないクラシックの醍醐味を感じたからである。
これは何か違うな、と思わずにはいられない雰囲気を醸し出すからである。
そして佐渡は、あの“苦い思い出”のあるバーンスタインに、亡くなる前の2年間師事した
経緯があることを知ったからである。

クラシックは崇高な、全く別の世界と思ってきた。
事実、これまでは高貴な方々の自然のうちのBGMだったのだろう。
しかし佐渡にかかれば、その難解で高貴な世界を、門外漢にもできる限り解り易くしようと
彼一流のやり方で仕掛けているに違いないのである。

同日の番組では、ベルリン・フィルの数多くの気高き演奏者との格闘と共に、
佐渡の私生活も紹介していた。
タバコも吸う、酒も飲む、アメリカントラッドの服も着る。

そして「世界の名門・ベルリン・フィルでタクトを振る」という子供の頃からの宿願を
達成するために、ベルリン・フィルからオファーが来る前に、ベルリンにマンションを
購入している。
思い込んだら命がけ、という精神ではある。そしてそれが佐渡裕の世界である。

Jポップスや演歌の世界だけが自分に似合う世界だと思いこんできた。
しかしそんな硬骨漢・佐渡裕が描くクラシックの世界なら、自分も入っていけるかなと、
期待せずにはいられない。

2011年06月11日

「(ドタバタ)民主党の本質」の研究

千年に1回と言われる大震災に遭遇し、的確で迅速な施策を打ち出すべき
政権与党・民主党のドタバタが収まらない。
揉め事ばかりが先行し、物事はサッパリ決まらず、全てに関して何も進まない。

一国を司ってきた人物がその後任者を「ペテン師」とまでののしり、
「言った」「言わない」と、小学生のような内輪もめを繰り返す。
野党時代ならいざ知らず、日本の政権を担っている政党とは思えない無様な姿を晒している。

どうしてこのようになってしまったのか。
2009年9月の政権交代から2年も経っていない。
その間に3人目の首相が誕生しようとしている。
では「民主党失敗の本質」はどこにあるのであろうか。

野党時代の民主党にはハッキリした大目標があった。
「自民党政治の否定」である。
「1955年の保守合同から続いてきた自民党による支配体制を打破する」ことが
大命題であった。
09年の総選挙で民主党は大勝し政権を樹立した。
全くのラッキーパンチだったとは言え、懸案の「政権交代」は成ったのである。

ではそれから以降の目的となると、全く定まっていなかった。
かっての自民党のような「政権の座にいることが政権の目的」といった割り切りもなかった。
政権交代達成の後は“(全く)何もない”状態だったのである。
マニフェストも机上の空論、きれいごとのオンパレードだった。

マニフェストに掲げた政治主導の方針は是認できるにしても、
間違った理解で官僚を排除し、官僚組織を機能停止状態にしてしまった。
それが今回の大震災の対応が後手に回った大きな理由ともされている。

民主党の特徴として、
「幹部クラスに組織運営の経験がないメンバーが多い」点が上げられる。
市民運動家、弁護士、松下政経塾等からの出身者は、一般の組織とは全く別の世界で
生きてきた。
人前で解説・説明することは長けていても、「人を動かす」ための“機微”には疎い。
民主党が忌み嫌う“根回し”と言われる純日本的でアナログな手法も、時には必要なのである。

百歩譲って民主党が“若葉マーク”だとしても、リーダーとしての資質にも問題があると
言わざるを得ない。
自らの発言を方便と言ってみたり、引退すると言っては否定したり、
怒鳴り散らしてばかりいたり、独断専行を決めてしまったり…
政治指導者としての教育訓練が足らなかったのは明らかである。

菅首相は首相就任に際して「最小不幸社会」を目指すと高らかに宣言した。
しかし大震災以降の3ヶ月を振り返ると、無策ゆえの「宰相不幸社会」が実現している。
このままでは日本国の滅亡である。
とりあえず今のままの民主党に日本を任せられない。

政策ごとの部分連合、衆院解散・総選挙を見据えた期間限定の大連立など、
打つべき手は打つ時期ではある。
“一時凌ぎ”には違いないにしても…

2011年06月06日

日本人メジャーリーガーの世代交代

自分は自他共に認める55番・ゴジラ松井マニアだった。
石川・星稜高校1年から4番だった松井を、“(スポーツ僻地)北陸の星”として
ずっと注目してきた。

鳴り物入りで入団し、長嶋茂雄監督の“松井4番・千日構想”の元で直々の指導を受け、
伝統球団・巨人の4番に定着した松井は、FA宣言してNYヤンキースに入団した。
ある意味で予想した以上の理想的な展開だった。

松井のピンストライプのヤンキースの(ホーム用)ユニフォーム姿がことの他好きだった。
好きが高じて、あろうことか、同じ仕様のユニフォームまで作ってしまった。
当然ながら周囲の人間からはあきられてしまった。何でそこまで…

その松井が、2006年の開幕直後、ホームのヤンキースタジアムで左手首を骨折し、
以降は守備につく機会も与えられないまま、DH専門になった。
しかし北陸の星・マツイは必ず帰ってくると信じていた。これで終わってたまるか…

そして2009年秋のワールド・シリーズで、神憑りな大活躍をしてMVPを獲得した。
NY市中の優勝パーレドの紙吹雪の中でインタビューを受けている松井を見た時、
ひょっとして「自分と松井の人生(!?)で最良の時」を迎えているのではないか、
とさえ思った。

しかしヤンキースは、米国特有の“もう元は取り返した”とのスタンスで松井を放出した。
2010年のロサンゼルス・エンゼルス、2011年のオークランド・アスレチックスと
米国内を転々と放浪する松井に、往時のオーラがないように見えた。
まず第一にエンゼルスの(赤い)ユニフォームも、アスレチックスのユニフォームも
ゴジラ・松井には似合ってないと思った。結局マツイにはピンストライプだろうさ…

今年の松井は精彩がない。
(専門家ではないので)偉そうなことは言えないが、構えが隙だらけで、
振りも鈍いように見える。もう限界のような気がしている。
日本球界復帰の可能性はあるのか??多分可能性はゼロに近いと思う。
読売巨人軍の55番は大田泰示が引き継いでしまっている。
それは松井のプライドが許さない。

そして松井の衰えと共に、天才・イチローこと鈴木一朗にも老いの影が見える。
まず切れ味がない。そして往時の執念も見られないような気がする。
正直言えば、元々、イチローの打撃スタイルは好きではなかった。
“こすった”ような当たりの内野安打が年間安打数の3割を占めるイチロー・スタイルは
一方で松井がいたから尚更に好きではなかった。
MLBで入団から10年連続200安打は、以降のMLB歴史でも不滅の記録とは思う。
WBCに参加するか否かで揉めた(今でも揉めている)と聞くイチローと松井だが、
意外にイチローは松井の衰えを気にしているかもしれない。
「記録のイチロー」も「記憶の松井」も、共に一時代を画した希代の名選手には違いない。
だが、時間の経過が、そうした名選手の退場を促している...

平成の怪物・レッドソックス・松坂大輔も大きな曲がり角を迎えている。
とにかく太り過ぎ、走り込み不足、と思う。
公称85㌔としているが、90㌔はゆうに超えていると思う。
下半身に粘りがないから、その分上半身や、肘に負担がかかる。
体がデカけりゃいい、ってもんではないと思う。大きな勘違いしてる。
今回の肘の手術で、全快に1年半かかるという。
再起はどうか?
高校時代から15年超も酷使されてきた松坂再起の可能性は低いと思わざるを得ない。

唯一活躍しているのがドジャースの黒田だが、シカゴ・カブスの福留、エンゼルスの高橋、
オリオールズの上原、レンジャーズの建山などの日本選手の活躍は目立たない。
元中日の川上憲伸、元巨人の岡嶋秀樹などは、行き先が決まらないままになっている。

早朝の仕事を終え、朝食の“絶好のオカズ”となってきたMLBの野球中継を見る気が
しなくなっている。
逆に、日ハム・ダルビッシュ、楽天・田中等を中心にした日本のプロ野球が面白くなっている。
MLB帰りのロッテ・井口の活躍は目立つものの、楽天・松井(稼頭央)や岩村等はサッパリ。
ひょっとしたら日本のプロ野球はMLBの技術を超えたのかもしれない。

日本のどの分野でも大きな転換点にあることを実感しているが、
ここでも「大きな時代の変わり目=世代交代の時」を感じている。

2011年06月04日

2011年初夏・アキバの風景

梅雨の合間の暑い6月4日(土)、アキバに出かけた。
今から約2年前の6月8日、通り魔無差別殺傷事件が起きた、あの秋葉原である。
出来れば行くのを避けたい街、アキバではあった。
だが、特殊な照明器具を販売している専門店はアキバにしかない。仕様がない…

相変わらずドヨンとしている。匂いが違う(ような気がする)
街には、一時は怒涛のように押し寄せていた中国人観光客の姿は見られない。
ただ歩いている若者の様相は2年前と全く同じ(のよう)に見える。
オトコはスニカー+Tシャツ+(背中に担いだ)ナップザック。
オンナは不釣り合いに高いヒールの靴に、ジーンズの上からミニスカートの重ね着。
アキバを歩く女性は、なんであんなややこしい格好をするのか。摩訶不思議である。

東京・秋葉原は「バーチャルな世界を現実のものとして再生した」街である。
昼夜の別なくゲームに熱中する余り、どんよりした目をしたオタッキィな若者を目当てに、
メイドやアニメキャラに扮したコスプレ少女たちの“萌え”を売りにしたサービス産業が
目玉のアキバの風景。
若い女性がごくごく普通にアダルト・グッズの専門店に入っていく風景。
“何でもあり”の常軌を逸した無法地帯の様相は変わらない。
何故か歩いているだけで異常に汗ばんだ。

第二次大戦後の秋葉原は、電化製品の安売りと共に、世界の同好仲間と交信する
アマチュア無線など、いわゆるマニア専門の街としても有名になっていった。
そしてその名を更に高めたのは、90年代後半。
米国発のIT時代となり、電子メールの交信を始めとして、世界情報の取得などに
最新式のパソコンが必要となり、当時の最新機器は秋葉原に行かないと調達できない
状態となった。

ところが、20世紀から21世紀に世紀が変ると、ビッグカメラやさくらやなど、
街中には電化製品の量販店が進出してくる。
こうした量販店の拡大は、電化製品の小売価格を破壊していった。
時代の急変で、都内には従来の電気屋はなくなり、そして電気の街・秋葉原の衰退も
目立つようになっていった。

そして衰退・秋葉原は、神田青果市場跡地の再開発と共に、再生が図られた。
三大要因は「ゲーム機器」「コスプレ」「中古パソコン」
特に「ゲーム機器+コスプレ」のセットだった。
元々、CG(コンピュータ・グラフィック)の中のバーチャルな世界を無理矢理現実の
ものにするのだから、ある種の異常性は致し方ないとは言えた。
渋谷センター街もある意味では異常だが、センター街の若者には、程度問題とは言え、
現実が先行している。
しかしアキバ系と言われる秋葉原の若者には、仮想現実(バーチャルリアリティ)と
現実の境界が曖昧のように見える。
そしてバーチャルな世界を現実の世界と思い込むことで、ある種の無警察状態を
醸成している。

今年からアキバで歩行者天国が再開されたと聞いている。
本当に大丈夫なのだろうか。
東京で歩行者天国、通称ホコ天が始まったのは1970年8月。
アキバも1973年から始まっている。
超有名繁華街の大通りからクルマを締め出す。最初は反発も少なくなかった。
しかし徐々に定着していったのは、そこが「危難を封じた安全な場所」との安心感を
与えたからである。

アキバから電車で約20分の佃界隈に戻った時、なぜかホッとする自分がいた。
果たしてアキバは安全な街として再生したのだろうか。

ITの進捗で変化する大学教育

大学全入時代を迎え、大学教育そのものを見直そうとする機運が高まっている。
要は現在の大学のカリキュラムが、実際の世の中の動きに即応していないとの見方が
浸透してしまっている。
その傾向は特に(従来の)経済学部を中心とした文科系学部で顕著になっている。
金融工学(ファイナンシャリング・エンジニアリング)をベースに、
激しく変化する世界の動きから完全に乖離してしまっている。

昨今では4年制大学生の就職難が盛んに言われているが、
要は「世の中の実態を知らない先生(教授)」が教えた知識をうろ覚えした学生を、
世界を相手に日々厳しい戦争を強いられている一般企業が採用するわけがないのである。

その「机上の空論の弊害」を排除するために考えられたのが、
実際に世の中の動きを体験した後、再度大学教育で学び直そうとする社会人と、
現場の教える側(教授等)とが意見や情報を交換をしあう
(理系学部中心の)「産学協同」と呼ばれる手法だった。

ただ戦後の日本では、職場を持つ社会人が学びの場に戻ることは、
時間的にも地理的にも非常に困難だった。
そうした中で「いつでも、どこでも、だれでも」が学べる制度として最初に設定された
制度が「通信制大学」だった。
当初は紙媒体の教科書を郵送し、それを教材にして学習する方式だった。
当然ながら郵送時間などの時間的弊害があり、(学びの場に必要な)臨場感が
なかったのは言うまでもない。

そうした諸環境を踏まえ、ラジオ・テレビといった放送手段を利用した遠隔教育の
ための大学が誕生するに至る。
日本における最初の遠隔教育手段は、
1983年に創設された「放送大学(The Open University of Japan)」である。

しかし鳴り物入りで開始された放送大学も、特殊法人として設置された背景から、
いわゆる天下り人事が当たり前となり、官僚に支配される特殊な大学(ご都合主義の大学)
と捉えられるようになった。
創設から約30年、立ち位置が明確でなく、世の中の認知度も低く、
結果として本来の創設目的を果たせなかったのが実情である。

ところが21世紀に入って以降のIT時代を迎え、インターネットによる教育サービスが主流に
なり始め、教育環境が劇的に変化し始めている。
現在の世界各国の公開大学では、インターネットは勿論、ウェブカメラ、スカイプ等による
双方向の意見交換も可能になり、携帯電話やiPadなどによる受講も一般的になっている。
そうした世界的な流れが日本にも定着し始めている。

これまでは、大学で学ぶためにはその大学のキャンパスまで出向く必要があった。
必然的に大学に通学する(できる)地域に住まいする必要もあった。
結果的には「大学に行くためにはカネがかかった」のである。
ところがこれからは事情が一変する。
自宅にいながら日本は勿論、世界中の有名カリキュラムを受講できる時代になった。

これまでは「大学に行きたいけど、家庭の事情(経済状態)から行けない」との“言い訳”が
通用してきた。
ところがこれからはこの“言い訳”は通用しない。
やろうと思えば、IT機器を通してその機会は無尽蔵に与えられる。

千年に1回の大震災が起き、日本では無政府的様相の濃い、混沌とした世の中になっている。
ヤル気のある者には、時代の転換期のビッグチャンスを迎えているのである。

カテゴリー

アーカイブ

最近のコメント