2012年07月28日

劇的な移籍劇の裏側

日本時間24日早朝、シアトル・マリナーズのイチローこと鈴木一朗の記者会見の画面が
突然のように飛び込んだ。
あの極端にマスコミ嫌いのイチローがピシッとスーツを着込んで涙ぐんでの会見。
一体何ごと??
「NYヤンキースに移籍する」のだと言う。
マジかよ!?

ヤンキースはマリナーズ3連戦のためシアトル遠征中だった。
現地時間23日の午後契約成立、即座にイチローは、背番号「31」をつけ8番右翼で
先発出場した。
突然の移籍とは言いながら、イチローにはヤンキースのユニフォームが用意されて
おり、「同契約が全く突然のものではない」ということは計り知れた。

今更言うまでもないが、イチローは01年、オリックスからマリナーズに移籍。
1年目には最優秀選手賞(MVP)や新人王等に輝く。
04年にはシーズン最多記録となる262安打をマーク、2度目の首位打者に。
10年に10年連続200安打を達成。
11年に連続200安打は途絶えたが、12年目の今年6月には大リーグ通算2500安打を
記録している。

こうした数々の記録から、野球殿堂入りは確実視されてはいたが、
今年のマリナーズは若手中心のチームになりつつあった。
そして今季で契約が切れ、再契約が頓着される中で、チームのベテランとなった
イチローは、打順がコロコロと変わるなど、本人にとって納得いく状況ではなかった。

イチローは今年38歳。
体力の衰えが垣間見える中、野球選手としては“引退”の二文字がちらつく年齢ではある。
これまで日本人の代表的なメジャーリガーとして何かにつけて比較されてきた
(レイズから戦力外通告を受けた)松井の惨憺たる姿は、イチローも目に焼き付いている
に違いない。

かくして、残された限定版の野球選手人生を、MLBの名門ヤンキースに求めたのも
ごく普通の考え方ではある。
ライトで8番、(屈辱の)“ライパチ”であれ何であれ、アメリカ特有の“使い捨て”に
されるなら、こちらから“(できるうちの)有効活用してやれ”と考えるのもまた納得できる。

それにしても、(それまでの本拠地)セーフコ・フィールズでの
(ヤンキースのメンバーとしての)第一打席は劇的だった。
観客が一斉に立ち上がり、大きく、力強い拍手が鳴りやまない。
濃紺の新しいヘルメットを掲げ、2度、ゆっくりお辞儀した。
チームの顔として過ごしたシアトルのファンから大声援に、
深く感謝の意を表したのだった。

米国式契約の社会は、
ビジネスの社会であれ、スポーツの世界であれ、”使い捨て”の世界である。
厳しい信賞必罰の世界。いい時には思いっきり稼ぎ、使い捨てに備える。
使い捨てにされた時、ごねないのがルールである。”去り際の潔さ”が求められる。

自分は55番のゴジラ・松井の、金沢・星稜高校1年生からのファンである。
その相対に常にいたのがイチローだった。
その松井の代名詞55番が35番に。イチローの51番が31番に。
この稀代の二人の名選手も最終局面。
極端に衰え始めた松井に寂しさを感じている。一時代が終わった…

天才・イチローとて選手としてあと2年程度と思う。
目いっぱい、悔いのない時間を過ごして欲しいと思う。


2012年07月21日

「日本型モデル」の研究(2)』-家電量販、再編加速-

家電量販最大手のヤマダ電機は同業のベスト電器を買収する。

ベスト電器の第三者割当増資をヤマダが引き受け、発行済株式の過半数を持つ
筆頭株主となる。株式の取得額は推定で100億円超。
ヤマダは今回の買収により、2兆円を上回る売り上げ規模を確保すると同時に、
業界トップの座を確保することになる。

今年6月、家電量販第5位のビッグカメラが、7位のコジマを子会社化して
売上高が1兆円に迫る2位に浮上しており、合従連衡の機運が高まっていた。
ビッグカメラは現在、ベスト電器に15%出資して業務提携をしているが、
ヤマダ電機のベスト電器買収で出資比率が低下することから、
ビッグカメラとベスト電器の業務提携は解消に向かう見通し。

ヤマダ電機は1973年創業。本社は群馬県高崎市。
2000年に東証一部上場。12年3月期の店舗数は国内が522店。
海外は中国に3店。従業員は1万4千人。

ベスト電器は1953年創業。本社は福岡市。1984年に東証一部上場。
79年度から96年度まで業界首位だった。店舗数は169店。
海外はインドネシア、シンガポールなど5ヶ国・地域に57店。従業員は4800人。

ヤマダ電機が、かっての業界トップのベスト電器を買収することで、
大手家電量販業界は新たな段階に差し掛かる。
多店舗展開と低価格戦略で地方での競争を制し、出店規制の緩和を追い風にした
大型化で勝ち上がったグループによる「決勝リーグ」が始まることになった。

残ったのは、
「ヤマダ電機+ベスト電器」
「ビッグカメラ+コジマ」
「エディオン」
「ケーズホールディングス」
「ヨドバシカメラ」。

ベスト電器は1970年代に台頭、地盤の九州から北海道まで店舗を広げた。
しかしこうした広域での拡大路線が衰退にもつながった。
ベスト電器の店舗は2000平方メートルと他社に比べて小さく、品揃えで劣る。
店の少ない地域では物流コストが高くつき、価格競争力も弱かった。
全国展開で先行したものの、店の大型化や効率的な仕組み作りで優れる後発組に
抜かれ、ジリ貧となっていった。

今回の大きな流れは、ここ20年の日本の銀行の流れに似ている。
弱い者同士が寄り添って大同団結し、「規模の拡大」という百年一日のテーマを
掲げるのはいいとしても、その規模の拡大によって、儲けるための「ビジネスモデル」
が確立されているのかどうか。
日本式・護送船団方式が世界に通じなくなっているのはご存じの通りである。

「家電の王様」と言われた「テレビ販売の急減」を補うだけのヒット商品も
見当たらず、経営環境は厳しい。
日本全国の市中の小売・電気店を完璧に駆逐したのは量販店だった。
しかし最大の売り物である家電製品は今や飽和状態である。

ここから先何を売るのか、何を買わせたいのか。
早急に明確な具体策を出さない限り 量販業界の将来に輝ける明日はない。

2012年07月16日

ザ・ピーナッツという伝説のデュオの話

名古屋で「伊藤シスターズ」として歌っていた二人を、渡辺プロダクションがスカウトし、
東京へ呼んだのが1958年(昭和33年)。デビューが翌年の1959年(昭和34年 )。

昭和33年と言えば、長嶋茂雄が鳴り物入りで読売巨人軍に入団した年。
この年は決して忘れない。「3がふたつ」。長嶋の背番号が「3」だったからである。
また東京タワーも昭和33年に完成している。
そして昭和34年は皇太子(今上天皇)のご成婚に沸いた年。

渡辺プロ専属タレントの第一号の一卵性双生児(伊藤日出代、伊藤月子)に
ザ・ピーナッツという芸名をつけたのは、日本テレビの井原高忠ディレクター。
デビュー曲は、キングレコードから出した「可愛い花」。
次いで第二弾の「情熱の花」が大ヒットする。
以降、双子独特の息の合ったハーモーニーで数々のヒットを飛ばし、売り上げ枚数は
1700万枚を超える。

昭和33年から昭和34年にかけては、家庭のTV受像機が爆発的に伸びた時期である。
特に皇太子ご成婚が、爆発的な伸びの絶対的な後押しとなった。
ザ・ピーナッツはそうしたTV時代の寵児として活躍の場を広げていく。

最初に大ヒットしたのはフジテレビの「ザ・ヒットパレード」。
平均視聴率が30%で、最高視聴率は47%。まさにお化け番組である。
♪ザ、ヒッパレ~、ヒッパレ~、みんなのヒッパレ~…のテーマ曲が日本全国に流れ、
ザ・ピーナッツの存在を日本全国に認知させた。

ザ・ピーナッツの人気を不動にしたのが日本テレビの「シャボン玉ホリデー」。
その番組の中でザ・ピーナッツは、司会から歌、踊り、コントの全てを演じた。
ラストは「スターダスト」のメロディが流れる中で、クレージ・キャッツのリーダー
ハナ・肇が冗談を言い、二人にひじ鉄砲をくらってオチになる。

日曜日の午後6時半から始まるこの番組は、日本全国民に、日曜は終わりだよ~、
明日から仕事だよ~(学校だよ~)と呼びかけているように思えた。
スターダストのメロディを聞く度に、映画「Always 三丁目の夕日」の光景を連想させ
当時の実家での食事風景と、小学生だった頃の甘酸っぱい気持ちを思い出させる。

ところで、ザ・ピーナッツの特徴は、最初はポピュラーソングをきれいな日本語で
歌うところにあったが、1960年代中盤からは、日本人の作詞作曲になっていった。
代表曲に「若い季節」「ウナセラディ東京」「恋のバカンス」等々があるが、
忘れてならないのは東宝怪獣映画のモスラ・シリーズでの主題歌。
♪モスラ~や、モスラ…のあのテーマ曲は、未だに忘れることのできない曲である。

いずれにしても、ザ・ピーナッツの楽曲は世界的にも認められることになる。
オーストラリアのTV局の「カテリーナ・ヴレンテ・ショー」を手始めに
1966年の米国の「エド・サリバン・ショー」や「ダニー・ケイ・ショー」にも
出演している。

そのザ・ピーナッツが突然の引退を発表するのが、1970年(昭和50年)4月。
2ヶ月後に姉の日出代さんが、当時人気絶頂だったザ・タイガースのボーカル、
ジュリーこと沢田研二との結婚を発表する
比叡山でのコンサート上で、沢田が結婚を報告した時、女性ファンからの
“ギヤャッ~”or”イヤァッ~”という絶叫の大音響が伝説となっている

結婚後は表舞台に一切出ることはなかったが、79年に長男が誕生している。
1983年に沢田研二と女優・田中裕子の不倫が発覚、1987年に離婚が成立する。
いくらバブル時代とはいえ、18億円と言われた慰謝料が、当時の世の中を驚かせた。
以降は再婚もせず、沢田姓を名乗り続けていた。

伝説のデュオ・ザ・ピーナッツが活躍した1959年から1970年までの日本。
それは1964年(昭和39年)の東京五輪を含めて、日本が高度成長時代を突っ走った
時期である。ザ・ピーナッツは、そんな日本の絶大なる”応援団”だった。

そのザ・ピーナッツの姉、沢田日出代さんが6月15日に亡くなった。
享年71歳。
何か大事なものを失った気がする。
昭和という時代がまた遠くなっていく...


2012年07月14日

危機に瀕する「日本型モデル」の研究

日本企業の経営戦略、特に「どのように利益を上げるか」を最大のテーマとする
「日本式事業モデル」が危機に瀕している。
「開発から製造まで自社で抱える」とする従来の日本型事業モデルが今や時代遅れ
になってしまっている。

こうした風潮が特に目立つのが日本の家電業界である。
テレビや携帯電話を巡る韓国や台湾勢との値下げ競争で苦戦し、
ソニー、シャープ、パナソニックは創業以来の大赤字を計上し、
半導体のエルピーダメモリは経営破綻に追い込まれた。

日本の家電業界は戦略転換の機会を見逃した点は否めない。
東芝はテレビパネルを自社生産から外部調達に変えるなど早めに対応したが、
上記のソニー、シャープ、パナソニックの三社に対応は完全に遅れた。

多くの日本企業は技術重視をしてはいる。
しかし全く新しい商品の開発より、既存製品の機能改善やコスト削減を得意とし、
固執している。
結果、開発から製造まで抱え込み、各部門を調整して仕上げる総合的システムを
採り続けている。
この日本型のモデルが、経済のグローバル化の大波を受け、欠陥になり始めている。

製造業では、どの会社製品であれ標準規格の部品を組み合わせれば製品になる
「モジーュル化」が進んだ結果、メーカーによる格差は薄れ、コストも徐々に
下がっていった。
そうした環境の中で、「大量生産と低賃金」という優位性を併せ持つ新興アジア勢の
価格競争力は、著しく強まっていった。

一方で欧米企業は、革新的な商品を次々に開発していった。
代表格は米アップル社の商品である。
特に高機能携帯電話のiPhoneは、他社の製品と同時に使いこなすことが可能であり、
顧客を囲い込みし易く、結果的に収益性も高まっている。

現状は家電製品だけの問題であるが、今後は自動車業界が時代の大波に晒されようと
している。
上記のアップルが電気自動車“iCar”を発売する日が近いと言われている。
部品数が少なくて作り易く、多くの企業が参入すると見られている。
世界に冠たるトヨタ王国もうかうかしておられないのである。

日本の家電業界の惨敗は、
「技術があれば安心」という時代が過ぎ、「何をどう作って売るか」を含む
事業モデルの大改造が必要となったことを示している。
そこで問われるのが「素早い判断と実行力」なのである。

大方の日本の経営者は、戦略の賞味期限が過ぎているのに、
製品機能や生産コストの改善で難局を乗り越えようとしているのが実態。
世界では、各国の企業が事業モデルの戦略を競い合っている。
未だに皆で渡れば怖くないする日本独特の護送船団方式を採り、
自分が先鞭を切ることを嫌う日本の企業は、パイオニアスプリットに欠けていると
言わざるを得ない。

日本の家電業界のピンチは、実は日本の産業界のピンチなのである。

2012年07月07日

たかが英語!

まず断っておかねばならないが、
自分にこのような(不遜な)言い方をできるはずはない。
楽天・三木谷浩史社長の最新刊である。
副タイトルに「ENGLISHNIZATION」とある。
日本でも英語を公用語化すべきだ、と氏は強調するのである。

自分のことを考えてみれば、英語を始めて約半世紀、数々の翻訳に携わり、
ウォールストリート・ジーャナルのDaily日本語版制作に携わったことで、
金融・法律関係の英語の日本語翻訳はほぼ大丈夫(!?)と言える状態になった。

しかし日本語から英語への変換は、(悲しいことに)お手上げ状態である。
英語独特の言い回しがあり、またスラング(辞書には出てこない独特の慣用句)を
使い回すには修練不足である。
日常英会話は格段不便はないにしても、正式な文書を英語に翻訳するには
相当時間の修練が必要である。
残念ながらエネルギーが残っていない。

「たかが英語!」と言ってみたい。
小学校から始めた自分の英語はいまだに未完成である。
時折、日本語から英語の翻訳を依頼される時がある。
そのような場合、丁寧にお断りすることにしている。
たかが英語、されど英語なのである。

最近の小学校では、英語が正規の授業となっている。
確かに、日本の国語が未完成のまま、英語という別の語学の世界に入っていくのは
本末転倒なのかもしれない。
しかし英語を身近におく(肌で感じる)ことは時代の要請なのかもしれない。

このグローバルな時代、
日本語を公用語とするのは、全世界を見渡しても日本だけである。
無国籍企業が増える中で、世界の公用語である英語をマスターすることは、
もはや当たり前の最低限の能力であり、英語会話ができるからと言って
威張れる時代ではない。
英語の次の第二外国語をマスターする時代となっているのである。

「どうしたら英語が上手くなれるか?」という質問もよく受ける。
大部分が大学受験に対しての英語対策だが、
そのような場合「中学3年の英語を復習しようや!」と答えることにしている。
日本の中学の英語は、中学3年で完結されるような態勢を採っている。
従って、中学3年間に出てくる150~200の基本文体を覚え込めば、
後は枝葉のついた応用問題である。

市中の英会話学校が流行る理由。
それは基本文体を理解しないで、枝葉ばかり覚えようとするから、覚えた先から
前に覚えた枝葉を忘れていく。
これでは“永遠の”いたちごっこである。
結局は「趣味の世界」に成り下がっていく。

少々偉そうなことを言ってしまったが、これからの時代、英語から日本語は勿論、
日本語から英語の対応が必要となっていく。

過去を振り返ってみれば、「英語の事案は英語で考える」ようになればホンマものだが、
日本の教育も曲がり角のようである。
かくして、日本の経済界の異端児・三木谷浩史氏が掲げる「たかが英語!」は、
これからの若者に重要なテーマを与えているように思う。


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