2013年08月31日

イチロー的生き方の研究

米大リーグ、ヤンキースのイチロー外野手(39、本名鈴木一朗)は
8月21日(日本時間22日)、ブルージェイズ戦で初回に左前打を放ち、
日米通算4000安打を達成した。

メジャーで4000本の大台の達成者は、
4256本のピート・ローズ、4191本のタイ・カップの2人。
イチロー外野手は1992年にオリックスに入団、9年で1278安打。
2001年からメジャーでは10年連続200安打を含む13年で2722安打を積み上げた。

その日の様子はNHK・BSのライブ放送を通してで実際に見ていた。
一打席目の3球目、実にあっけなく大記録を樹立した。
その瞬間、チームメートが駆け寄り、ヤンキースタジアムは総立ちとなった。
たまたま2塁の守備についていた、イチロー命=イチローフリークの
ブルージェイズ・川﨑宗則が泣きべそ(!?)をかいていたのが象徴的だった。

オリックスでは1994年に年間210安打と日本球界初めて200安打の壁と突破し、
この年から7年連続で首位打者を獲得。
96年には日本一となり最優秀選手(MVP)に選ばれている。
2001年にシアトル・マリナーズに移籍、「年間200安打」を目標に掲げ、
04年には262安打を記録、84年振りに記録を更新した。
01年から10年までの10年連続200安打も、メジャー記録である。

180㌢77㌔と、野球選手として恵まれた体格とは言えないイチローが、
なぜ大記録を樹立できたのか。
巷間では
「イチローには“そぎ落しの美学”がある」と理由付けされている。
そして、「前進するだけでなく、後退することも進化と捉えることにある」とも
されている。
凡打した時、次のヒントがないか考える。スランプは逆に飛躍のチャンス。
「失敗の中に可能性が含まれる」と考えるのである。

またイチローが細身のバットを使用しているのも有名である。
常識的に考えればミートするけなら太いタイプのバットが楽。
ただイチローはきちんと芯に当てるための細いバットを使っている。
つまりは「成長しようとする時、普通の人間は付け加えようとするが、
イチローの場合は無駄を省こうとする」のである。

イチローに対して、加齢による衰えが頓着されてはいる。
しかしトレーニング方法も用具も進化している現在、これまでも様々な既成概念を
打ち砕いてきたイチローには40歳という年齢は問題ないとは思われる。
丸坊主の修行僧に近い格好で、多分5000本安打に挑戦していくのだろう。

4000本とは200本×20年の計算になる。
確かに凄い記録ではある。
しかしメジャーリーガー・鈴木一朗のタイプが好きかと問われれば、答は「NO」。
左打者のメリットを最大限に生かし、バントヒットを常用するタイプに、
野球本来の醍醐味が感じられない。
余計であることを重々承知で言えば、“こすっからい”ように思うのである。
どうしても5月に引退式をしたゴジラ・松井と比較してしまう。

「記憶に残るか」「記録に残るか」。
自分はひたすら面白い野球を見たいと思うが…


2013年08月25日

高校野球に垣間見た「”変わる”ための要件」

8月8日から始まった第95回の夏の高校野球は、前橋育英高校の優勝で幕を閉じた。
初出場・初優勝という快挙だった。
鍛えているはずの選手にも熱中症で倒れる者が出るほどの酷暑の甲子園。
強豪校の呼び声が高い(高校野球を生業とするプロの仕事師・監督率いる)常連校が
次々に姿を消す中、新鋭校の活躍が目立った大会だった。
準々決勝からは1点差の白熱した試合が相次いだ。
何か新鮮だった。魅入られた。面白かった。

そうした新鋭校のひとつに8強に勝ち残った富山第一高校がある。
大会前の評価は「どうせ緒戦敗退だろう」とするのが一般的だった。
地元では全く期待されていなかった(らしい)。ボロ負けしなければいい…
木更津総合高校に勝利し、8強が決まった日、たまたまお盆で地元にいた自分は、
地元紙が号外を出すのを初めて目にした。

野球後背県の、しかもオール富山のチームがなぜベスト8まで残れたか。
実際にチームを観察できたのは、第二戦目の木更津総合戦からだったが、
あれっ、何か違うぞと思った。これが富山の高校チームか?
まずはユニフォーム。富山伝統の“だささ”が消えている。
そしてズングリ・ムックリのタイプはおらず、背丈も押しなべて大きい。
“一皮むけてる”ような感じがした。

そして特筆すべきは、
32歳の黒田学監督が徹底して犠牲バントをしなかった点である。
「管理した野球、指示する野球を強いると、生徒が委縮する。」
「だから生徒の考えに任せる」と述べた。
なるほど、だからのびのびと、しかも戦況を考えながら行動したのだ...

自分はいわゆる“定石”自体を否定はしない。根幹の論理は必要である。
しかし“定石”を必要以上に意識するが余り、選手個人の能力を生かし切れない。
それが富山の野球の伝統的パターンだった。
勝つも負けるも選手に全て任せてみるか...
ある種やけっぱちの作戦だったには違いない。

「型にはめない」。それが32歳の黒田監督の考え方だった。
「責任のある自由」
「戦況を分析し、自分で戦略を考えるための自由」。
こうした“信頼しての放置”は、簡単なようで、なかなかできない。
黒田監督の若さかもしれないが、そこには従来の富山の思考パターンを
超えるものがあった。

富山第一高校は創立が1959年。
男女共学で普通科のみの富山県最大の私立高である。
と言えば聞こえがいいが、
公立主流の全国有数の教育県・富山では私立自体が異端だった。
創立以後20年程度は“公立に受からない者がいく高校”、
すなわち“落ちこぼれの高校”の位置付けだった。

その位置付けが変化し始めるのは、
サッカー日本代表フォワード・柳沢敦が出てくる1990年代からだったと思う。
柳沢効果から、1999年の第78回全国高校サッカーでベスト4入りし、
翌79回大会にもベスト4に入り、北陸勢初の2年連続の国立進出を遂げる頃から、
富山第一の名は、県内だけでなく全国的にも確立されていった。

バレーボールでは男女とも強豪で、何度もアベック種出場を果たしている。
その他、柔道部、ラグビー部も全国大会出場の経歴がある。
こうした一連のスポーツ各部の定着で、推薦入学で難関私大に入学する生徒が
出始めた結果、国公立の大学への進学も盛んになった。
“落ちこぼれ高校”の名称を徐々に返上していったのである。

「型にはめない」黒田野球が結果を残したことで、富山の野球が変わるような気がする。
“何か”を感じ取らねば致し方ないような富山第一の健闘だった。
そして2015年の北陸新幹線開通に向け、型に固執して動けない(動かない)富山県も
また変わるような気がする。

2013年08月20日

団塊の世代・中学同期会の風景

日頃から当ブログにアクセスを戴いている皆様、残暑お見舞い申し上げます。

こりゃどうなったんだ!日本は完全に亜熱帯かっ!と口を揃える酷暑の日々、
お元気でいらっしゃいますか?
例年の如くの残暑見舞い、実は先週にアップするつもりでおりましたが、
酷暑の中の諸行事の連発、そして富山県代表富山第一高校が夏の甲子園で
8強入りするなどの異変(!?)あり、アップアップ状態で、ようやく取り掛かっております。

とにかく暑い。
マスコミでは水を飲め、水分を採れと連発しておりますが、結局は水分だけではなく
汗と共に排出されるカロチンを採らなければならないようです。
医学の専門家ではないので知ったか振りはできませんが、確かに塩分+カロチンを
含んだポカリスエットの類を摂取することは必需のようです。

そして皆様、こんなクソ暑い時こそ“スイカ”ですぞ!
スイカを小さい四角状に切り、冷やして、塩を振りかけて召し上がってみてください。
酒の(特にウィスキー・ハイボール)つまみにはなるわ、暑さにつかれた体が楽に
なるわで、とにかく効果バツグン。
スイカに塩をかけるのは甘味を増すのではなく、体の調節をするためのものだった
のであります。昔の人はよく言ったもんだと、今さらながら感心致します。

ところで本題。
今年のお盆、中学の同期会が開催されました。
発案・企画されたのが黄金週間あたりだと思われますが、例によってKが幹事役。
「アオよ、今年は中学の同期会やるぞ…」「フ~ンそうけ、中学の…」

最初は小学校の同期会をやろう!ということだったらしい。
がそのうち、うちの組も、うちの組もの連続となり、
結局は、ええぃ面倒だ、中学でやっちまえ!ってことになったらしい…

我が実家方面では、中学は一緒でも、小学校の二大勢力「寺家」「田中」で
くっきり区分けされております。いわゆる、いうところの派閥ですな…
我々の場合、寺家校下が断然団結力を持っておりますです。
で、田中は寺家の軍門に下る、ってのがいつものパターン
今回も粛々と(!?)、寺家校下先導で計画が実行されていきました…

まずは誠に残念ながら、過疎化・高齢化が進む実家方面では、
100人を超す人数を賄う場所や施設がない。
当然ながら宿泊を希望する人間もいて、県庁所在地の富山で開催と相成りました。
我々の地方では、「残念だ、情けない」状況を“うぞい”と表現致しますが、
まことに“うぞい”状態ではありました。

で、当日。午後12時から開始される富山市内の会場に出向きました。
JRの列車で15分程度ではありますが、この暑い中、弟の車で涼しく到着。
会場に入ると「舟木一夫」「橋幸夫」のなつかしのメロディでお出迎え。
少々アナログっぽいが、それはそれでグッマッチング。
こんな企画、音楽マニアのKの仕業に違いない。やるじゃんか….

開会の前、それぞれにご挨拶。
名札を見なきゃ、誰が誰だか解らない。名札を見て「おおっ!お前かっ!」の連発。
自分の場合、決まって言われたのは
「染めてる?」「それ地毛?」。挙句「ひょっとして植毛?」「カツラ?」
アホか、地毛じゃわい!

和気藹々と、淡々として宴が進行していきましたが、
そのうち分かったのは同じ組の人間が5人も亡くなっていたこと。
そして地元で、時たま飲みに行く店のオーナーママが同じクラスだったってこと。
実に半世紀振りに真実が判明致しました。誠に迂闊な、馬鹿な話ではあります。

二次会(多分三次会も)やって、実家に帰りついたのが午後8時過ぎ。
お昼から夜まで延々8時間。中学の同期会は幕を閉じました。

次はいつになるのでしょうか??
Kよ、ほんとにご苦労さま!!
次回の幹事も(多分)お前だからな!お前しかいない!!

最後になりましたが、(高校時代の酒好きの友人が脳梗塞で倒れるような)
酷暑が続きます。
どうかご自愛戴きますよう。


2013年08月11日

「預金量5兆円」が安全圏というお題目

8月6日の日経新聞は、
東京都民銀行と八千代銀行の経営統合をトップ記事で伝えた。

東京都民銀行は戦後の復興期の1951年、中小企業向け資金供給のため、
東京都や経済界の支援で設立された。
75年に東証一部上場。預金残高は2兆3千億円。貸出残高1兆7800億円。
従業員数は1600人。店舗数は77。

八千代銀行は1991年、信用金庫から普通銀行に転換。
2000年に経営破綻した旧国民銀行の営業を譲り受け現在に至る。
07年に東証一部上場。預金残高は2兆500億円。貸出残高は1兆3700億円。
従業員は1600人。店舗数は84。

誠に残念な話だが、
首都・東京一円をその営業圏とする東京都民銀行も八千代銀行も、
そんな銀行あったかいな、ってな具合で、存在感は全く薄い。
その存在感の薄い銀行が統合しようがしまいが、全く関係ない、勝手にどうぞ、
といったところが本音ではある。

地方銀行は数が多く、再編が必要だと言われて久しい。
バブル崩壊後、大手銀行は集約が進んだが、地銀は遅々として進まない。
第二地銀の数こそ1989年末の68から41に減ったが、
第一地銀は64から変わっていない。
(第一地銀、第二地銀合計で105行となる)

これまでに広域再編が実現した例としては、
ふくおかファイナンシャルグループ(FG)や、ほくほくFGなど一部に限られている。
その他、フィデアホールディング(HD)(北都銀行・庄内銀行)、
じもとHD(きらやか銀行・仙台銀行)、
トモニHD(香川銀行、徳島銀行)、
山口FG(山口銀行・もみじ銀行・北九州銀行)があるが、
その全てが狭い地域での経営統合である。

一連の地銀に与えられた最大の環境の変化は、ここ10年、新幹線を中心とした
交通網の整備によって、地方に拠点を置く必要性がなくなってきている点である。
新幹線整備はトンネル現象を起こし、地域経済そのものに資金需要が減退している。

そして地方銀行の最大のネックは、IT時代に沿った近代金融の根幹スキムである
「金融工学(ファイナンシャル・エンジニアリング」の技術取得を放棄している点。
為替取引をしていない(為替市場に参入できない)のに外貨預金を売る、
株式取引をしていないに投資信託を売るといった等の、本末転倒の事態を
引き起こしている。

21世紀に入って地銀は、黙っていても預金だけは集まるといった幸運があった。
”地元の盟主”と標榜するプライドが保たれた要因だったが、
ソニー銀行やイオン銀行等の異業種銀行の進出で、
その牙城も徐々に崩され始めている。

誰が言い出したのかは不明だが、地銀間では、
「預金量5兆円を超えなければ、システム投資などを含めた負担に耐えられない」
という“お題目”が先行、規模の拡大と称して、
(双方が傷つかない、安直な)提携先を見つけのるに必死になっている。

ただ「本業縮小」「国債頼みに限界」というテーマの中で、
「攻め」の技術もないまま、「守り」の地銀の生き残りは難しい。
世界の潮流を眺めれば、つまるところ「地銀の使命は終わった」と言うしかない。


2013年08月03日

キャロライン・ケネディ・新駐日大使を巡る思惑

7月24日、米政府は、ジョン・ルース駐日大使の後任として、
故ジョン・F・ケネディ元米大統領の長女であるキャロラン・ケネディ女史を
起用すると発表した。
駐日米大使に女性が起用されるのは史上初。
米上院の承認を経て、今秋にも着任する。

戦後生まれの日本人は「ケネディ」という単語に敏感に反応する。
その名前が世界中で氾濫し始めるのは1960年代。
新大使の父である第35代米大統領・ジョン・F・ケネディは、
1961年1月20日、史上最年少43歳の若さで大統領に就任する。
その若さゆえに注目され、彼の8・2分けのヘアスタイルも世界で流行する。

とにかくジョン・F・ケネディは“初めて尽くし”だった。
20世紀生まれの最初の大統領であり、
カトリック教徒として現在まで唯一の大統領であり、
アイルランド系米国人として最初の大統領であり、
ピューリツァー賞を受賞した唯一の大統領である。

そしてその名を永遠不滅なものにしたのは、在任中の1963年11月22日、
テキサス州ダラスで遊説中に暗殺されたからである。
あろうことか、日本初の米国からのTVライブ中継が、
凶弾に倒れるケネディ大統領の画像だったことが、
その名は絶対的なものになった。
“ライブで(現実に)人が殺される、しかも新進気鋭の米大統領が…”
白黒だったから尚更、その画像は強烈だった。

次いでジョン・F・ケネディの実弟で、
兄の任命により司法長官を務めたロバート・F・ケネディの名も
戦後生まれの日本人の心の奥深くに残っている。
早稲田大学・大隈講堂での演説が今や伝説となっているロバート・F・ケネディは、
1968年6月6日、
民主党の大統領候補選のキャンペーン中にまたもや凶弾に倒れる。
以降、「呪われたケネディ家」という単語が一人歩き始める。

そして、ジョン・F・ケネディの妻であり、キャロラインの母である
ジャクリーン・ケネディ・オナシスも「呪われたケネディ家」という単語を
定着させるに十分な存在だった。

ジョンとジャクリーンは4人の子供をもうけたが、キャロライン以外は
若くして死亡。
ジャクリーンはジョンの暗殺後、
ジャクリーンと再婚するため、有名オペラ歌手のマリア・カラスと関係を清算した
ギリシャの海運王のアリストテレス・オナシスと再婚する。

ジョン・F・ケネディは大女優・マリリン・モンローを始めとして、
多くの女性問題(不倫問題)が取り沙汰されたが、
ジャクリーンと義弟のロバート・F・ケネディとの不倫問題もまた
大きく取り上げられた。
もはやドロドロしたドラマ仕立ての展開ではあった。

一冊の本になるような中身の濃い経緯を簡単に説明してみたが、
キャロライン・ケネディ女史は「光と影を背負うヒロイン」には違いない。
父の暗殺以降、何かにつけて頻繁にマスコミに登場した。
特に父・ジョンの葬儀での悲しげな表情は今でも目に焼き付いている。

さて、外交経験のないキャロラン女史の登用は、
果たしてどういう意味を持つのだろうか。
はっきりしていることは「米国で日本への関心が高まる」ことだが、
これから一体何が始まろうとしているのか?
風雲急を告げる!?である。
オバマ政権の思惑はいかに…


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