2014年09月28日

スイス金融から消える秘密主義と今後の影響

スイスには世界に稀な銀行法が存在する。
「外国の捜査当局を含め、第三者へ顧客情報の提供を禁じる」というもの。
法制化されたのは1934年。
しかし伝統は300年の歴史を持つ。
犯罪への関与で証拠があれば協力することはあったが、外国当局が資産隠しの証拠を
掴むのは容易ではなかった。

永世中立のスイスが戦争を免れたこともあり、スイス自体が安全の象徴となり、
世界の富裕層の資産を預かるのに貢献した。
フランスのルイ16世からフィリピンのマルコス大統領まで、
また噂によれば北朝鮮のキム一族まで、秘密資金を預けた権力者は多い。
日本の暴力団資金が流れ込んでいたことも明らかとなっている。

21世紀になって、こうしたスイス金融の秘密主義が終わろうとしている。
資産隠しを巡る米国とスイスの攻防が本格化したのは2008年。
捜査を受けた大手・UBSは翌年に米当局と和解し、罰金の支払いと顧客情報の
開示に応じた。
だがスイスの金融界はUBSを例外扱いにした。
そしてその後も同国の銀行法を盾に、口座情報の提供を拒み続けた。

牙城が崩れるのは13年1月。
スイス最古のプライベートバンクが脱税のほう助を認め、廃業を決めたのが
大きな転機になった。

間もなくスイスは「米国外の金融機関が米国籍者の口座情報を米国に届ける」
ことを定めた、外国口座コンプライアンス法(FATCA)に同意する。
しかし米国の追及は続いた。
過去の脱税ほう助について、
スイスの銀行が隠し資産の一部を返納して情報を提供すれば、起訴を免除する制度を
提案する。

ここではスイス議会が抵抗した。
板挟みとなったスイス政府は、現行制度の運用を変えることで米国の要求を
受け入れたのである。
かくして議会はFATCAを批准し、
スイス政府はOECDがまとめた「税務行政執行共助条約」にも署名した。

それでも全てがクリアにならなかった。原因は明白だった。
「米国がすでに捜査を開始していた14行は、新制度を利用できない」との
条件がついたからである。

その中で最初に罪を認めたのが大手のクレディスイスだった。
「抵抗すればするほど罰(罰金)が大きくなる」リスクを避けたのだった。
以降はなし崩し的に“米国に従う”動きになり始めている。
数百年続いてきた“秘密主義帝国”が崩壊し始めたのである。

1980年代から1990年代前半にかけ、グローバリズムが先行し、「原則自由」の風潮の中で、
タックス・ヘイブンのシステムを活用しようとする動きが活発となった。
香港・シンガポール、パナマ等のカリブ諸国、英国領チャネル諸島などが活況を呈した。
いわゆる“イケイケ”の時代だった。

しかし、世紀の変わり目に向けて国際金融は大きく転換していく。
代表例が香港・シンガポールである。
1997年の香港返還を機に英国の撤退で、そのメリットは急激に消滅していった。
そして21世紀に入って、タックスヘイブンのリスクを認識し、忌避する流れは
急激に世界に蔓延していった。

かくして、米国のここを先途の強硬なスタンスは世界各国に多大な影響を与え始めている。
“米国がくしゃみをすれば風邪をひく”日本はまさにその代表例。
国際金融は「原則禁止の時代」に逆戻りを始めている…


2014年09月21日

オリコンチャートの実態

日本の音楽業界に絶対的な権威を持つとされるオリコンチャートとは何か。
そして実態はどうなっているのか。
竹内まりやの7年振りのオリジナル作「TRAD」が、
9月8日~14日付けのCDアルバム部門初登場で首位に立った。
その意味を含め、オリコンチャートの実態に迫ってみた。

オリコンチャートの正式スタートは1968年1月4日付から。
創業者は小池聰行。
ちなみにシングルチャート第1回の1位は黒沢明とロスプリモスの「ラブユー東京」。
LPチャート第1回の1位は森進一「花と涙」。」
CDチャートの第1回の第1位は中森明菜の「BEST AKINA メモワール」。

集計方法は、原則毎週月曜日から7日間の集計期間中に売上を集計する。
日曜日に集計を締め切り、月曜日にチャートが発表される。
但し月曜日に閲覧できるのは法人向け有料サイトのみで、一般公開日は火曜日。
発表される売上枚数は集計サンプルからの推定売上枚数となる。
また年間チャートは前年の第4週から12月第3週までの期間。

集計はあらかじめ決められた販売店から売上データを受け取る形式となっている。
以前はFAXなどに頼っていたが、販売店にPOSシステムが普及したこともあり、
最近ではPOSの売上データによりデイリーチャートを集計している。
結局、特殊なルートでしか販売しない楽曲がオリコンチャートにランクインしない
場合もある。

オリコンチャートによる累計売り上げ枚数と位置付けられるのは、
チャート圏内(2002年12月以降はシングルは週間チャート200位以内、
アルバムの場合、週間チャート300位以内)の売上を単純加算したものとなるからである。

音楽チャート業界では、オリコンの他に同業他社がいるものの、
オリコンの影響力は大きく、米国の「ビルボード」誌と同様、
音楽界の評価指標として用いられている。

しかし最近では、
シングルCD市場の急激な規模縮小(その一方で音楽配信市場の拡大)に伴い、
件数ベースでは音楽フル配信の4分の1程度、金額ベースで同6割程度に落ち込んでおり、
実勢を捉えていないとの見方から、過渡期との見方も出始めている。

以上がオリコンチャートの概略だが、
今回の竹内まりやの首位奪取は、1980年代から2010年代まで、10年毎の4つの世代に
わたってオリジナルアルバムで首位を獲得するという史上初めての快挙。
また59歳6カ月でのアルバム首位は、松任谷由美の58歳10カ月(12年12月)を上回って、
女性アーティストで最年長記録になる。

毎週日曜日午後2時からのFM東京系「サンデーソングブック」を20年超にわたって
聴取してきた。
竹内まりやの夫君・山下達郎がMCをする、オールディーズを中心とした
少々マニアックな音楽番組だが、当然ながら竹内まりやのからみもある。
番組を聞いているうち、ごくごく自然に山下達郎&竹内まりやの楽曲に馴染んだ。

オリコンチャートの権威が多少は落ちとたとしても、
還暦間近の竹内まりやの、40年超にわたる快挙を心から祝ってあげたい。
それにしてもつくずく思う、優れた楽曲は何年経っても新鮮であると。


2014年09月13日

100年かけた世界への挑戦

81年振りの四大会4強、92年振り全米8強、96年振り全米4強.…
今回の錦織圭の大躍進には、次々と時代的な形容詞がかぶせられた。
そして今回の錦織の活躍により、およそ1世紀前の日本のテニス.草創期の伝説の
名選手が、再度表舞台に登場した。

慶応出身、就職した銀行のNY支店に勤務しながら米国内を転戦、
軟式独特のフォアハンドを武器に、1918年の全米で4強入りした熊谷一弥。
1920年のアントワープ五輪の単複で獲得した銀メダルは全競技を通じて
日本の五輪メダル第一号となった。

東京高商(現一橋大)を出た清水善造は商社マン。
赴任したインドで硬式テニスを覚え、英国出張時にウィンブルドンに出場、
1920年、4強入りした。
確か小学校の教科書で、「フェアプレーの熊谷」として紹介されていた。
対戦相手が転んだ際、取りやすいようなボールを返し、
日本の武士道精神はかくやと紹介されていたと思う。

1930年代前半に活躍した佐藤次郎は早稲田出身。
四大会の4強に5度も入った。
国別対抗戦デビスカップでも活躍したが、重責にさいなまれ、
マラッカ海峡で船から身を投げ、26歳の若さで命を絶った。

ただ戦後の足取りは重かった。
1955年の全米ダブルスで宮城准・加茂公成組が優勝。
しかし1968年にオープン化(プロ解禁)してから競技人口が増え、
世界の壁が一気に厚くなった。
男子では神和住純や松岡修造が奮闘したが、松岡の95年ウィンブルドンの8強が
目立つ程度で、身長190センチ超の繰り出す時速200㌔を超すサーブは日本男子の
体力では受け切れないと言われるほど世界との差が広がった。

自分たちの年代がテニスと出会ったのは、こうした戦後の“(テニスの)暗黒時代”。
同好会と称する(テニスを介した)男女の出会いの場が乱立し、
軟派なヤワなスポーツとみられがちだった。
言い過ぎかもしれないが、あの“ヘラヘラ”感がたまらなく嫌だった覚えがある。
とりあえずは“男のスポーツではない”との(間違った)固定概念があった。
世界の趨勢など知る由もなかった。

ただ無駄に元気な(!?)松岡修造が出てくる90年代になると、
多少は見方が変わってきた。
あのどうしようもない絶望的に強烈なサーブを打ち返し、“牛若丸のように”前後左右に
激しく動き回るスタンスに、格闘技に似た感覚を感じ始めた。

13歳で渡米した錦織は、台湾のマイケル・チャンというアジア人指導者を得て、
アジア男子初のシングルス準優勝までこぎつけた。
日本人あるいはアジア人でも、鍛え方次第では世界に通用することを“百年かかって”
証明することになった。

準優勝の賞金145万㌦(約1億5千万円)、
スポンサーの日清食品やユニクロ等から1億円超のボーナスなど、
総額で3億円超の賞金を手にすることになった。

ま、言うところのサクセス・ストリーには違いない。
ただ他のスポーツ、例えば野球やゴルフ に比較すればまだまだ安い気がする。
テニスプレヤー錦織圭の夢は始まったばかりである。.

2014年09月06日

代ゼミの縮小撤退と時代の背景

1970~80年代の夏の風物詩として、大手予備校の夏期講習の風景があった。
「受験生に夏休みはない」
「猛暑を乗り切った者のみに勝利がある」などと、
まことに勇ましい掛け声の元、東京の有名予備校に通うのが“勝利の方程式”だった。
全国津々浦々の若者(受験生)は、こうした“いびつで激烈な”受験戦争を、
心ならずも受け入れるしかなかった。とにかく勝つしかなかった。

当時の大手予備校御三家としては「代々木ゼミナール」「駿台予備校」「河合塾」。
その中でも代々木ゼミナール、通称代ゼミは、
でかい教室に大量の受験生を詰め込むマスプロ方式で、夏の風物詩としては格好の
風景を提供した。
酷暑の中で受験勉強に励む姿は、受験生の本心(=葛藤)はどうあれ、
確かに日本の未来を背負うごとく、“頼もしく”映った。

この8月、そのマスプロ予備校の代名詞、代ゼミ縮小のニュースが流れた。
全国に27か所ある校舎を7か所に減らすという。
そして20か所は2015年以降、生徒の募集を止めるという。
ある種衝撃的だった。
わが世の春を謳歌したあの代ゼミが…

大学受験を巡る環境は激変している。
一つ目は浪人生の減少と現役志向の高まり。
少子化時代を迎え、入学希望者より募集枠が多い「大学全入時代」となり、
90年代前半には20万人近くいた浪人生は今や8万人で、受験人口の1割強。

二つ目は国立や理系学部を選ぶ受験生の増加。
浪人生の現象による予備校の苦しさは他の予備校と条件は同じだが、
私立文系を得意としてきた代ゼミにとって、現状の理系主役の流れは“大型台風並み”
の逆風だった。

三つ目はネット配信授業の恒常化。
個室のようなブース、あるいは自宅の勉強部屋で、ネット配信で授業を受ける
スタイルが恒常化した。
受講生は時間に縛られず、何度も講義を受けることが可能になった。
もっと言えば、予備校に通うのに東京で住まいする必要性もなくなった。
これは“ある種の革命”だった。

かくして1000人以上を収容する大型教室で受講するスタイルは完全に姿を消した。
代ゼミがイメージする世界ではなくなったのである。
最近では「(子供を小学生のうちから囲い込む)“青田買い”方式」が盛んに
採られているが、今後の行方は未知数である。

ここで考えなければならないのは、世の中の大きな動きである。
最近の大学、特に従来の文系学部のレベル低下は著しく、
グローバル化した世の中の動きについていけなくなっている。
不変的な学問=例えば法学部・文学部などは何とか通用するものの、
可変的な学問=例えば経済学部などで教える学問は、
日々激変する世界経済の動きに追随していない。
端的にいえば、宇宙ロケットを飛ばす技術を習得した者が闊歩する現在の金融社会に、
余りに世離れし、アナログなのである。

21世紀は、「どこの大学を出たか」ではなく、「どこの大学院で何を学んだか」が
大きなテーマになり始めている。
こうして考えれば、「大学に入るための予備校」の存在は、以降も益々存在価値が
薄くなるのは必至。

代ゼミという単語を聞くと、「(南こうせつ)神田川」のメロディを連想させる。
代ゼミが謳歌したマスプロ授業は、今となってはノスタルジックな世界なのだろう。


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