2014年10月26日

世界の金融市場に奥深く潜む「宴のあと」の雰囲気

10月もあと1週間ばかり。
世界の金融市場が不安定な動きを続けている。
元々10月は“相場が荒れる月”として知られる。
1987年の「ブラックマンデー」や2008年の金融危機など、
世界的な株価の急落を何度も10月に経験してきた。

米国が量的緩和(QE)を外すタイミングに当たり、世界的な疫病への警戒感も高まる。
この二つの要因も過去には株価に逆風となった経緯がある。
重なる三つのジンクスに市場の楽観ムードは影を潜め始めている。

10月が荒れるその他の要因として、「ファンドの決算売り」「米国の9月新年度入り」
などが上げられるが、根本は“人間の心理”にある。
いくらコンピュータ中心の世界の金融市場とはいえ、市場の主人公はあくまで人間。
現在のコンピュータに重なるジンクスを警戒しようとする(微妙な)機能は
備わっていない。
結局は「(ジンクスを気にする)人間の密かな怖れ」が市場のブレを増幅する。

現在の市場の最大の要因は「米国の金融緩和が終了した後の市場動向が読めない」
ことにある。
過去2回の米国の量的緩和が終了する際にも世界の市場は揺れた。
現在は潤沢なマネーが支える流動性相場から、
ファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)の基づく相場に移行する過渡期ではある。

かくして投資マネーが、
株式や商品から米国債などの安全資産に向かう流れが出始めている。
(一時的とは言え)
米国株が最高値から7%近く下げ、ドイツ株が高値から14%調整されている。
世界の株式時価総額はピークの8月末の約71億㌦(約7500兆円)から
約6兆㌦(東京証券取引所の時価総額に相当)が消えた。
また原油価格は2年4カ月振りの安値(1バーレル80㌦割れ)など、
諸般のデータがその兆候を明確にしている。

そして現在のドル高が米経済に与えるマイナス影響も議論され始めている。
米国内で消費が伸びないと、対米輸出依存するアジアに普及し、
一段と世界経済が減速する”負の連鎖”も懸念され始めている。
結局は、
「果たして米国自体が本当に安全なのか」という問題が根幹に残り、
右往左往する(=相場がブレる)ことになる。

振り返って、我が日本はどうか。
安倍改造内閣が全く突如のタイミングで、
小渕優子経済産業相、松島みどり法相の「(女性閣僚)辞任ドミノ」に揺れている。
「辞任ドミノ」を10月異変と一括りにするのは少々乱暴だが、
就任時から小渕さんの若さ、松島さんの閣僚としての違和感が目立っていた。
基本的に“人気取り”あるいは“話題づくり”の人事であった点は否めない。
年末にかけ消費税増税原発再始動、外交など、難しい課題が山積している安倍政権に
とって、求心力低下は避けられそうにない状況。
「円安・株高」を主題とするアベノミクスも、重大な曲がり角に差しかかっている。

日経平均株価の16,000円超えは、最安値の7千円台後半から約2倍。
ドル円の110円は円の最高値から約3割の下落。
こうした一連の流れを「アベノミクス効果」あるいは「ごく普通の当たり前の流れ」と
考えるのが異常だと思うが、さて…

2014年10月18日

東海道新幹線開業・東京五輪から50年。団塊世代の50年

東海道新幹線は1964年10月1日、
ひかり・こだまが1時間の上り下り1本づつ、1日計60本の運行で開業した。
平均乗客数は6万人。
最高時速は当時世界最高の210㌔。東京・新大阪間は4時間。
開業は10月10日の東京五輪開会式に合わせたものだった。

65年11月に3時間10分に短縮。
69年の大阪万博を前に、1時間にひかり3本、こだま6本を運行するようになり、
70年の平均乗客数は23万人。

85年に最高時速220㌔の100系車両が導入され、東京・新大阪間は2時間52分に。
92年に最高時速270㌔の300系(のぞみ)が導入され、東京・新大阪間は2時間30分。
そして07年に700系が導入され、東京・新大阪間は2時間25分。
また乗客数は40万人を超える。

以上がざっくりした東海道新幹線の歴史だが、
開業当時の東海道新幹線は“高嶺の花”だった。
「そんな夢の世界がある」とは知らされていても、
「いつになったら乗れることやら」といった状況だった。

自分が新幹線という名の列車に乗車するのは82年11月の上越新幹線開業から。
大宮発の上越新幹線に乗車するのに、都心から大宮まで30分超の京浜東北線乗車が
必要だった。
ついで始発が上野になり東京駅となっていくが、
新幹線の主役は常に東海道新幹線だった。

東海道新幹線に乗車できたのは(多分)80年代後半からだったと思う。
当時は食堂車があり、所定の座席に荷物を置いたまま、
大方の時間を食堂車で過ごしたこともなつかしい思い出である。
食堂車から富士山を眺めた時、“夢が適った”と思ったものである。

東海道新幹線開業50年は東京五輪50年とも重なり、そして団塊の世代50年の歴史である。
命名者・堺屋太一氏の定義では
「1947年から49年の3年間に生まれた806万人」を指すことになっている。
現存人口は668万人(2010年調査)。140万人が亡くなっている…

1964年前後の時代の象徴。
何と言ってもまずは石津謙介の主宰するバンジャケット。
バンジャケットはアイビールックを先導し、アイビースタイルの「みゆき族」なる
若者が銀座を闊歩していた。
(田舎者にはグラビア上の“架空の世界”だったが…)
そして銀座ソニービルの完成と、座三越に第一号店が開店するマクドナルド。
そして忘れてならないのが(今も現役の)「資生堂MG5シリーズ」。

団塊の世代は「学生運動・反抗・挫折と」いった単語で語られがちだが、
団塊の世代が戦後の日本に与えた最大の影響は「大量消費社会の担い手」で
あったことは間違いない。
結局、数を誇る団塊の世代の若者に、社会も企業もすり寄っていった。
ただその蜜月も80年代で終わりを告げる。
「数」が重荷になり始めるのである….

考えてみれば東海道新幹線開業も、東京五輪開催も、団塊の世代の青春も、
戦後の日本の右肩上がり高度成長時代の象徴だった。
50年という年月がごくごく自然に流れていった。

思えば遠くに来たもんだ…そんなセリフが自然と口から出始めている。


2014年10月11日

「マック離れ」の検証

中央区佃に住んで20年超。
月島もんじゃ街に至近(歩いて2分)の、典型的な江戸の下町。
最寄の地下鉄・月島駅の真上にはマクドナルド(通称マック)がある。
開店してから20年超(と思う)。
「月島駅真上のマック」は、いわばランドマークだった。

毎日はごめん。
だが、月イチか二月に3回。
理由はわからないが、ジャンクフードが無性に食べたくなる。
ごく薄のコーヒーにフライドポテト、チーズバーガーかチキンナゲット。
その程度しか頼まないが、とにかくこの20年、毎月1回は行っていた計算になる。

もんじゃ街・唯一のマックということで、行列が普通だった。
自分たちの年齢になると、とにかく(傍若無人な!?)若者や、
ベビーカーを抱えた若い主婦軍団と並んで買うのが苦痛。
そして、混雑するほどフォーマットされた応対文句を連射する若い店員も苦手だった。
あんたたちはロボットか?もちっと人間らいしい言葉を喋れよ!…

そのマックに異変が起きている。
行列が消えた。
ベビーカーの主婦軍団もまばら。
そして若い店員がいなくなった。従って連射の応対もなくなった。
というより、連射ができない(!?)年齢層の店員の世界になっている。
どうしたんだ、マック…

10月7日、日本マクドナルドホールディングスは、
2014年12月期の連結営業損益が94億円の赤字(前期は115億円の黒字)となるとの
見通しを発表した。
営業赤字は01年に上場して初めてのことである。

理由はハッキリしていた。
今年7月の(中国企業による)期限切れ鶏肉使用問題が発覚したことである。
確かに鶏肉問題は客離れに拍車をかけたことにはなるが、
客離れのトリガーとなったのは根幹にある慢性的なものと思う。
結局は「100円マック」の優位性が薄れ、
「キラー商品」が生み出せない“不作為の中でのジリ貧”だった。

店内はいつもざわついて、相手の声が聞こえないから、不必要にデカイ声になる。
確かに、「安価で食欲を満たせばそれでいい」という考え方もある。
ただ一方で、
「マックがゆっくり会話ができる空間であってもいいはずだ」という不満は
常に燻っていた。

21世紀前半からスターバックス(通称スタバ)が大々的に進出し始めて、
そうしたマックに対する希望は消えていった。
スタバの環境&品揃えは、(小煩い)大人をも満足させるものだった。
マックの味は忘れ難い。
しかしマックは所詮マックでしかない…

最近、セブンイレブンのおにぎりが人気である。
まずセレクトされた素材の米が圧倒的に美味しい。
自前であんな美味しいおにぎりは作れない。
日本人の主食の米を代表的な商品に仕上げたセブンイレブンの戦略はまさに秀逸。
年間の消費量は約19億個。
グループ全体の使用量は2013年産で約19万㌧。日本の生産量の2.5%。

さてどこに行く、マック。
消費者ニーズが多様になる中で、従来の不作為のままのマックでは忘れ去れらる。
20世紀の王者マックの存亡の危機と思う。

2014年10月04日

常識大転換の時代

古来日本では、「それは常識」と言えばそれだけで十分説得力があった。
言葉自体に相当な力があった。
誰もが認め、長い年月通用するもの。
一見平凡ではあるが、どことなく逆らい難い存在感のある考え方。
それが常識だった。
逆に非常識という表現は、軽い悪口のようでありながら、人の評価に決定的な
力を発揮した。

その常識が大前提になっている代表的な社会が日本の相撲界だった。
部屋制度、親方とその弟子、横綱・大関・関脇・小結・平幕・十両、
そして(無給の)幕下以下の三段目・二段目・序の口の“番付という格付け”に
確固たる“格差”がつけられていた。
誰も文句のつけようのない、変わることのない「実力本位の常識の世界(のはず)」だった。

大相撲秋場所。
14日間「満員御礼」の垂れ幕が掲げられた。
実質的には15日間連続の大入りだった。
“モンゴル人”力士中心の現代の大相撲になぜ人気が回復したのか。
理由は次第にはっきりしてきた。
これまでのように首都・ウランバートル出身のエリートではなく、
首都から400㌔離れた大平原に生活する遊牧民の子弟が活躍したからである。

逸ノ城。角界に入って5場所目。ざんばら髪の素人、のはずだった。
それが10日目に(2横綱・2大関を倒した)嘉風に勝ってから“もしかして”の
雰囲気になった。
11日目に大関・稀勢の里、12日目に新大関・豪栄道を連破し、
13日目に横綱・鶴竜と対戦することになった時点で“(常識破りの)怖いもの見たさ”
の雰囲気に変わっていった。

伏線は11日目の稀勢の里の二度の「待った」にあった。
いずれも逸ノ城が突っかけ、稀勢の里が嫌った。
ここで逸ノ城は立ち合いの変化を選んだ。
ぱったりと手をついた稀勢の里は最初から固くなっていた。
大関としての面目はなかった。

新大関・豪栄道戦では、逸ノ城の力強さ・器用さ・冷静が目立った完勝だった。
それだけに13日目の横綱・鶴竜戦は熱戦が期待されたが、稀勢の里戦の二の舞になった。
「立ち合いの変化」という取り口も全く同じだった。
「横綱に例を欠く」との批判もあった。

そして14日目の白鵬戦。
いわば最後の砦だった。
ここで白鵬が負け、100年振りの新入幕・初優勝となれば、
番付社会のヒエラルキーが木端微塵に崩れ去る。
横綱・白鵬の在位43場所目で最も重圧のかかる一番だった。

左からの出し投げで転がした。
白鵬が勝ち名乗りを受けた時、満場から万来の拍手が起きた。
横綱が新入幕力士を破って万雷の拍手とは、と思ったが、
考えてみれば、“常識が守られた”ことによる安心感だった。

14日目の視聴率も20%を超えた。
モンスター逸ノ城の登場で「常識が破られることの“こわいもの”見たさ」が
原動力となったが、逸ノ城がいかに型破りのモンスターだとしても、
このまますんなりと横綱になるとは思えない。
何らかの壁にぶつかるはずである。それが“(人間としての)“常識”である。

一方白鵬は、故大鵬の持つ32回の優勝記録を破るのは時間の問題となった。
かくして、
横綱3人が全てモンゴル人、平幕以上の力士の三分の一がモンゴル人となったという現実の中で、
日本の相撲がモンゴルの国技になり始めているのも“非常識でない”時代になった。

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