2015年10月31日

あさが来た

NHK朝ドラ、正確に言えばNHK連続テレビ小説は、
1961年「娘と私」(獅子文六原作)でスタート、以来半世紀を超えている。
月~土曜15分の放送が基本で、現在は毎朝8時を中心に、
地上波、BSを含めて1日4回放送している。

日本人は朝ドラという形式を至極当然のように思っているが、
1日15分のドラマを、土日を除いて毎朝放送するという形式が、
半世紀も続いてきたという例は世界にない。

インターネットやゲーム等を通した娯楽が多様化し、
欲しい情報が瞬時に手に入る現代社会において、
毎週1回の連続ドラマや毎日15分だけの朝ドラを見続けるというのは、
今や“時代遅れのアナログな”受容形態である。

そうした時代の流れに逆らった方式が続いてきた最大の理由は、
朝ドラが趣味や娯楽というよりも、日本人の「生活の一部」であり、
「(一種の)日課」のようなものになったからである。
要は朝ドラは「(日本人の)生活のリズム」を醸成してきた。
それが毎朝15分しか見られないという「不自由さ」を
受け入れた理由でもある。

朝ドラが受け入れられてきたもうひとつの理由は
「先を急がない」ことにもある。
劇的な展開となれば、15分では到底描き切れない。
その点朝ドラは「毎日同じ人に出会う」ことに意味がある。
極端に言えば、「毎朝家族に顔を合わす感覚」に近い。

83年11月12日に「おしん」が記録した62.9%は、
62年にビデオリサーチが調査を開始して以来、史上最高率とされている。
ただそうした“(朝ドラの)劇的な展開”は異例で別格である。
現在の朝ドラに過剰なドキドキ感は不要である。

基本的に考えれば、朝ドラに重要なのは「事件」よりも「人」である。
毎朝元気に仕事に向かう気持ちにしてくれる明るい笑顔や、
仕事から帰ってほっとした気分にさせてくれる心温まる微笑(ほほえみ)が見たい。
従って、女性に焦点が当られてきた。

現在の朝ドラ「あさが来た」のモデルは明治を代表する女傑・広岡浅子。
舞台は幕末から明治・大正時代。
嫁ぎ先を立て直すために炭鉱経営に乗り出し、
ピストル片手に荒れくれ者の炭鉱夫をまとめあげたと言われている。
その後も銀行や生命保険会社を設立するなど、
嫁ぎ先の両替商を近代的金融業に生まれ変わらせる活躍を見せた。

波瑠の演じるヒロイン・あさと、玉木宏の遊び人の夫・新次郎、
宮崎あおいの演じるヒロインの姉・はつ、
江本佑(たすく)の演じる陰気なマザコン夫・惣兵衛。
それぞれに好演しているが、
特に、朝ドラ版・冬彦さんの役を演じる江本佑の演技が光っている。

前作の輪島を舞台にした「まれ」が、方向感のない迷走で今ひとつだった。
その点今回の「あさが来た」は、幕末から明治にかけて実業家として
活躍した女性がベースになっており、流れに安定感がある。
幕末から明治初期の日本の金融界の推移も興味深い。
AKB48の主題歌も元気の出る曲に仕上がっている。

「あさが来た=夜が明けた」。
朝に格好な連ドラと思う。


2015年10月24日

「五十貨店」の時代 -淘汰される総合スーパー-

2020年の東京五輪を控え、東京・晴海・豊洲・有明方面での
50F超のマンションや商業ビル建築ラッシュはすざまじい。
テーマは「部屋から東京湾花火が見える」ことにある。
自分が現在の住まいに引っ越した当時、「部屋から見る東京湾花火」を
堪能できはしたが、高層ビル建築ラッシュで、
“今は昔(今から20年超前)”の夢物語である。

そうした歴史的な大きな変化の中で、自分が住まいする佃地区では、
最寄の大江戸線・有楽町線・月島駅から半径500メートル以内に
コンビニが6店舗、スーパー5店舗が乱立する。
スーパーと言っても、食料品専門スーパー。

そしてタクシーで5分、自転車で10分以内には、
ヨーカー堂、イオン、赤札堂の総合スーパーや、
ユニクロや、(東京ドーム1.5個分の面積を誇る)日用品雑貨専門店もある。

確かに人口密度の濃い地域ではある。
だから乱立状態になる。
そして競争も激烈になっていく。
究極の三段論法ではある。
だからと言って、人の流れが(多少は)違うからと、
「同一店舗が100メートル移転する状態」が尋常と言えるかどうか。

コンビニの国内の店舗数は5万店を超え、年間売上が10兆円を超える中で、
顧客の奪い合いが激しさを増している。
一方、衣料品から住居関連品まで揃う総合スーパーはこの10年で急速に
競争力を失った。
コンビニの台頭が大きな原因ではあるが、
ユニクロやネット通販の台頭も総合スーパー駆逐の動きに拍車をかけている。

10月15日、
国内コンビニ3位のファミリーマートと、
同4位のサークルKサンクスを傘下に持つ
ユニーグループ・ホールディングス(GHD)が、
2016年9月に経営統合することで基本合意したと発表した。

ファミリーマートは西友ストアー(現西友)の小型店事業として1972年に発足。
98年に伊藤忠商事が筆頭株主となった。
ユニーグループ・ホールディングスは1971年に発足したユニーが母体。
2004年にサンクスアンドアソシエイツと統合して
サークルKサンクスが発足している。

コンビニに関しては依然としてセブンイレブンの独走状態が続いている。
セブンイレブンは1万8千店の店舗数と、
それを支える約1600の専用工場を中心とした、
プライベートブランド(PB=自主企画)商品や弁当などの、
品質・価格・開発スピードで差をつけている。

1日1店あたりの売上高(日版)では約67万円、2位のローソンが約55万円、
ファミマは約52万円。サークルKサンクスは約44万円。
以降はセブンイレブン、今回の統合後の新会社、そしてローソンの
「コンビニ三極時代」となっていく。

以降は従来の百貨店のようにあらゆる商品を揃えるのではなく、
商品を絞った「五十貨店」の時代と言われる。
コンビニ優勢の流れが続いていくのか否か、
セブンイレブンの牙城が崩れるか否か。

最近、1985年に登場した30年後の世界を描いた映画
「バック・トウ・ザ・フューチャ-」の「実現度」が話題となった。
21世紀に入って変化のスピードが増しているように感じる。
これから30年後はどうなっているのだろうか…

2015年10月17日

「歴史を変える」ための条件

10月13日、
第8回ラグビーW杯・イングランド大会で初めて3勝を挙げた日本代表が帰国した。
通常は成田着になるはずが、羽田空港着という“VIP”扱い。
出発時には50人程度だった送迎ファンが、500人超に膨れ上がった。

同日、東京都内で行われた記者会見では300人超の報道陣が詰めかけた。
席上、エディ・ジョーンズ・ヘッドコーチ(HC)は
「日本の新しいラグビーの歴史が始まった」と高らかに宣言した。
今回のW杯で日本人は、ラグビーの魅力に完全に目覚めさせられたのだった。

これまでサッカーW杯、夏季五輪、そしてラグビーW杯が
「世界3大スポーツ」と言われてきた。
ただラグビーW杯は公平性を著しく欠くとも言われてきた。
それは国際統括団体ワールド・ラグビーが、貴族社会のような階級制で各国を
区別してきたからである。
スコットランドなど伝統のある10カ国を「ティア(層)1」と呼び、
様々に優遇してきた。

W杯で中3~4日の試合をする場合も、
ティア1各国は確実に勝利を見込める対戦相手があてがわれた。
必然的に日本などの「ティア2」は過密日程になっていった。
そう考えると、ティア1の筆頭格・南アを倒した日本の金星は、
旧秩序が闊歩する“支配者階級”を脅かす(画期的な)革命だった。
日本ではなく、海外のメディアが騒いだ理由だった。

躍進・日本チームの屋台骨を支えたのはフルバック(FB)の五郎丸歩だった。
五郎丸が決めたペナルティ・ゴール(PG)13本は今大会一次リーグで最多。
五郎丸の両手を胸の前で合わせる(祈りに似た)“ルーティン”が世界中で
評判になった。

今年初から、日本の国営放送NHKは稀代の名キッカー・五郎丸の特集を組み、
再放送を繰り返した。
そしてあの独特のフォームに至った経緯は勿論、
スポーツ競技者のルーティン・ワークの大事さ、
競技者心理を徹底研究する必要性等を視聴者に訴えかけた。

都合5回は見たと思う...
そうしているうち、まさかな、と思いつつ、ひょっとしたら…
と思わせる感覚はあるにはあった。
日本のラグビー変わるのかな...まさかな...

20世紀の日本のラグビーは大学中心の、“日本だけに通用する”ラグビーだった。
それはティア1に挑戦しようとする気概も、具体的な戦略も練られないまま、
日本独特の精神主義が先行する、単なる“自己満足”のラグビーだった。

少々キツイ言い方かもしれないが、
松尾雄二、平尾誠二のようなタレントもどきの"ちゃらい"存在も
日本のラグビーに対する嫌悪感を増幅した。
日本には日本のラグビーがある…世界に通用しなくてもいい…

そんな傲慢で自己満足的な考え方が完璧に否定された。
1995年第3回W杯。対ニュージーランド戦。17-145の大敗。
限界を超えた世界だった。
何をきれいごと言ってんだ...もうやめとけや、空しくなるから...
結局は世界を見据えたスタンスにはなかった。
一部のマニアを除いて浸透しなかった理由である。

基本的にルールが細かくて面倒くさいスポーツである。
相撲のぶつかりに似たセットスクラム、タックルなど、
雨が降ろうものなら全身泥だらけになる。
怪我は当たり前の格闘技であり、
フォワードに至っては100㌔超の“お相撲さん”軍団。
言ってみれば華麗なスポーツではない。

そんな日本のラグビーも、
今回の日本代表の活躍・結果で、日本に完全に根付いた(と思う)。
2011年のなでしこジャパンの世界制覇で、女子サッカーが根付いたように。

歴史を変えたのはエディ・ジョーンズの掲げる「世界一厳しい練習」だった。
厳しい練習を通して「マインド・チェンジ(意識改革)」が起きたのだった。
「歴史が変わった」要因は至ってシンプルだった。
考えてみるまでもなく、基本中の基本だった。

大粒の涙を流す五郎丸の姿がTV画面に何度も映し出された。
何で泣くんだ、お前は? 今や世界のスター選手だろ? 誰もが思った。

日本代表に選ばれて、ここまで来るのに10年かかった…
途切れ途切れに彼は言った…
あれは日本のラグビー界全体の涙だったのかもしれない。

2015年10月10日

ノーベル賞連発の日本とその現実

ノーベル賞の由来や立ち位置は今更詳しく述べる必要もないだろう。
ザックリ言えば「世界的な“偉い”学者orマニアックな専門的研究者」が
受賞する賞であり、“雲の上”の世界だった。
受賞理由・内容を説明されても理解できるはずもなく、
“ああそうなんですか…”の世界だった。

ところが2002年に京都・島津製作所勤務のサラリーマン研究者・田中耕一氏が
化学賞を受賞するあたりから受賞意味が徐々に変化していく。
特に同氏は自分の出た高校(富山県立富山中部高校)の卒業生だったから
尚更身近に感じるテーマとなった。

富山中部は日本有数の受験校であり、富山県下一円から秀才が集う高校だった。
そして理数系科目に、特に数学に、
教師を超える才能を持つ天才型生徒がいたのも事実だった。
教師が頭を抱える難問を、生徒がいとも簡単にスラスラ解く情景…
少々異常に見えるかもしれないが、日常茶飯のごくごくありふれた情景だった。

ただそれは、単なる受験だけの世界と高を括っていた。
ところがである。
そうした天才型生徒の中からノーベル賞受賞者が出てしまった。
これはある種の革命だった。
当然ながら「(自分が)もらう、もらえない」の領域ではないにしろ、
ノーベル賞がグンと身近になった。

21世紀になって日本人の受賞が相次いでいる。
今年は生理学・医学賞大村智・北里大学特別栄誉教授、
物理学賞に梶田隆章・東京大学教授(同大宇宙線研究所長)が受賞した。
2日連続の快挙だった。

大村教授はアフリカなど熱帯地域流行する感染症の治療薬を開発、多くの人命を
救ったことが、そして梶田教授は「ニュートリノ振動」という現象を発見し、
従来の素粒子物理学の考え方を大きく変えたことが受賞理由だった。
日本が沸いた、というより日本は唖然とした(と思う)。
ノーベル賞はそんな簡単にもらえる賞だっけ…?

大村教授の場合、余裕綽々の特異なスタイルが目立った。
米製薬大手のメルクが80年代初めに動物の駆虫薬「イベルメクチン」として
商品化して以降、大村教授に(推定)毎年10億円単位の特許料が入ると言われ、
ノーベル賞受賞は時間の問題と言われていたからである。
要は日本では特異な「カネに困らない研究者」だった。

梶田教授の場合、「ニュートリノ観測」は小柴昌俊・東京大学特別栄誉教授が
主導して建設された「カミオカンデ」をベースに、
同教授が2002年に物理学賞を受賞して以来、「日本のお家芸」と言われており、
ごくごく当たり前の受賞ではあった。

かくして、21世紀に入って日本のノーベル賞受賞者は16人となり、
50人超の米国の次ぐ第2位の“ノーベル賞大国”の地位にある。
しかし研究成果を市場価値や国富に結びつけるかどうかという“新時代の問題”
には手つかずになっている。
大村教授の場合は異例であり、
全体的には、ある意味で“(現世界と隔離した)きれいごと”の世界になっている
のも事実である。

基本的に日本人は優秀なのだろう、多分。
だから日本は安泰か…?
ノーベル賞連続受賞に何とはなしに高揚感が蔓延している。
だが次代を見据える冷静さも必要と思う。

2015年10月03日

プラザ合意30年 -戦後の日本経済の栄光と挫折-

今年は戦後70年という言い方が流行した。
「戦後70年という数字」にどれだけの意味があるのか?
それなら
(1971年の金・ドルの交換停止したニクソン・ショックと並ぶ重大な出来事だった)
「(戦後40年目にあたる)プラザ合意30年」が余程大きな節目で、
意味を持つのでないかと思う。

1985年9月22日、日曜日。
NYプラザホテルで日米欧5カ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁によって
後世に残る歴史的な合意がなされる。
それが世に言う「プラザ合意」である。
日本側は(中曽根康弘政権下の)澄田智日銀総裁+竹下登蔵相。

プラザ合意の狙いは二つあった。
「レーガン政権下で強すぎたドルを適度に弱くし、ドルを安定させること」、
「日米間で深刻になっていた貿易摩擦を和らげること」
端的に言えば「強いドル・強いアメリカ」を「弱いドル・強いアメリカ」に
転換する試みであった。
もっと被虐的に言えば日本の「(為替を使った)米国に対する借金の棒引き」
に関する合意だった。

プラザ合意当時、日米独英仏の5カ国(G5)だけで、
世界全体の国内総生産(GDP)の6割を占めていた。
通貨マフィアと揶揄された5カ国の蔵相が集まり、
忌憚のない話し合いができた時代ではあった。
プラザ合意の共同声明も、大半は1週間前の85年9月15日の
ロンドンG5蔵相会議で固められていたとされている。

プラザ合意の基本は「政策協調」と「協調介入」だった。
結果的にドル高是正には成功する。
が、政策の協調は崩れ去ることになる。
米国のベーカー財務長官とダーマン財務副長官の法律家出身コンビが、
為替を一定の範囲に収めようと無理を重ねたからである。

米側の強引な施策に対抗して、西独連銀が短期金利を高めに誘導する。
これに対してベーカー財務長官が立腹、ドル安の口先介入に出る。
市場は政策協調の綻びを感じ取り、株売りの嵐を引き起こした…
これが87年のブラックマンデー(世界同時株安)であり、
この時点でプラザ合意の枠組みはほぼ崩壊する。

株式市場の混乱は比較的短期に収束する。
この一連の流れの中で、日本の立場は明確になった。
低金利を維持したことで、世界最大の経営黒字・債権大国の日本が、
「世界経済のアンカー」として認められた。
つまりは当時の世界経済が、「世界最大の経済国・日本を中心にして動いていた」。
ある意味、絶頂期だった。
そしてその日本が「米国の強引な要求を飲んだ」ことで暗転する。

プラザ合意から円相場は2年余りで倍に強くなった。
(最終的には1995年=10年で3倍=79.75円)
作為的で政治的な円高であるにもかかわらず、
「日本は強くなった」「世界最強」との(間違った)高揚感が日本に蔓延する。
その実、対米の債権=米国債が半分の価値になった、のにである。
好事魔多し、その後の日本は株式と不動産を中心にした「バブル時代」に突入する。

「戦後40年経過後の絶頂とその後の空白の20年間」」。
これがプラザ合意という大きな節目であった。
日本にとって振り返りたくない苦い思い出なのかもしれない。

今後日本を担うであろう若者間に「プラザ合意」という単語を知らない者が多い。
もはや「プラザ合意」は死語なりつつある。
そういう状況を至極残念に思う....

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