2016年06月26日

人間の限界を超える数字の世界

プロスポーツの世界は“見せる”ことによって報酬を得る世界である。
球技であれ、格闘技であれ、“プロとして見せる”には、
大きく分けて二つの種類があると思う。
「強烈な記憶に残るプレーをする」か「人間技ではない数字を残す」か。

イチローこと鈴木一朗の日米通算安打記録4257本は、
少なくとも常識では考えられない数字である。
単純計算で20年×200本=4000本。
日本と米国では試合数が違うが、米国式160試合をベースに、
年間150試合に出場したとして、2試合に3本(=1試合に1.5本)の
ヒットを打たないと200本レベルに到達しない。
バッティングセンターのような人工的・機械的な球ではなく、
“プロの生きた球”をである。

ご存じのように、日本には名球会という組織がある。
最近では250セーブを超えた者もその資格を得れることになったが、
基本的には2000本安打以上、200勝以上を上げた者が
「スーパースターの称号」を得れることになっている。
これは20年×100本、20年×10勝が基本となっている。
イチローは「従来の日本のスーパースターの2倍超」を成し遂げたことになる。

自分の本音を言えば、イチロー型の選手は余り好きではない。
「コツンと当てて全力疾走で逃げる」ような世界は、
“こすっからく”見えるからである。
55番・ゴジラ松井の2009年のワールドシリーズでの
“神がかり”の狂ったような爆発的な打撃や、
ミスターこと長嶋茂雄さんの“ここぞ”という大事な場面の
絶対的な勝負強さがプロだと思う。
生涯忘れないような「記憶に残る」プレーをするのがプロだと思うのである。

だが、ピート・ローズの持つ安打世界記録・4256本を破ったイチローは、
もはや「人間の限界を超えた鉄人」である。
確かに日米野球は似て非なるものだ。
試合数や使用球、投球の平均速度や中継ぎのレベルも違う。
そして最大の相違点は、
日本の投手はなるべくストライクを投げずに打者をかわそうとするが、
メジャーではストライクを投げ打者と力比べしようとする。
野球とベースボールは別種の競技と言われる所以である。

だが、異なる野球への対応に苦労するのはお互い様で、
現役大リーガーが来日して、日本ではサッパリということも少なくない。
竹刀をサーベルに持ち替えるような異境に移ってもなお、
イチローはイチローであり続けてきた。
その適応力は世界一というに相応しい。

米国では「ローズ超えの世界一」とは言いたくないらしい。
当たり前と言えば当たり前ではある。
新記録4257安打の先へ行こうとするイチローを見つつ、
王貞治・868本の本塁打と同様に、
何らかの言い訳をしないと“本家のメンツ”が保てないからである。

尋常ではない執念を込めた1万4千打席余り。
圧倒的な「量=結果」としての安打数は、
日米の通算記録だとしても単純に驚嘆すべきものである。

「長嶋茂雄+松井秀喜」は国民栄誉賞を受賞した。
ならばイチローも「国民栄誉賞」を受賞してしかるべきと思うし、
イチローもああたらこうたら言わないで、素直に受けるべきと思う。

2016年06月18日

変貌する東京。そして変わらぬ「政治とカネ」の世界

東京銀座数寄屋橋。
昭和20年代に一世を風靡した映画「君の名は 」で有名な、
いわば銀座の玄関である。
JR有楽町駅からマリオン(旧日劇)を通れば数寄屋橋交差点。
旧電通通り(外堀通り)のスタートが
昭和の銀座を象徴していたソニービル銀座である。

1959年、ソニーの創業者のひとり故盛田昭夫氏がショールームを開設。
1966年にはビルとなり、世界的企業・ソニーの情報発信基地となり、
ピーク時には1日2万人が訪れた。
国際都市・東京の代表的なテーマパークであり、待ち合わせのメッカだった。

旧電通通りを新橋方面に向かうと、リクルートビルを終点とする、
銀座のクラブ街がある。
今も昔も赤い灯、青い灯が爛々と輝き“お出で、お出で”と妖しく囁く、
伝統・東京・銀座のクラブ街。
いい意味でも、悪い意味でも大都会・東京の風景ではある。

自分の大学入学“祝賀会”は、ソニービルの並び約80メートルほど
新橋寄りにあった(今は亡き)叔父のバーでの飲み会だった。
サントリーウィスキーのコーラ割り、コークハイを一気飲みし、
泥酔して有楽町駅までフラフラになって辿り着いた。
忘れ得ないほろ苦い思い出である。

ソニービル内の地下にあった高級レストラン「銀座マキシム・ド・パリ」は、
日本全国から金満家や有名人が押し寄せていた。
「あの店で食事する」ことが目標ともなった。
学生の身分で行けるはずもなく、
そこで食事できたのは30歳を超えてからである。

その銀座のテーマパークだったソニービルが、
17年3月で飲食店テナントの全館の営業を終え、
取り壊されてイベント広場「銀座ソニー広場」に変わる。
約700平方メートルの敷地はミニコンサートやチャリティイベントに解放される。
米NYの「タイムズスクェア」の階段広場のような雰囲気なるという。

ソニー側のコンセプトは
「銀座の真ん中に公園をつくるというソニーらしい大胆さを世界に発信する」
としている。
ただ東京五輪後には新たにビル建設を着手し、
22年秋にはショールームとして完成する予定であるとしている。

今年の3月、ソニービルの真向かい、旧東芝ビルの跡地には
東急不動産が1800億円を投じた「東急プラザ銀座」が開業した。
銀座中央通りが中国人に占拠状態になっている一方で、
東急プラザ開業以降、旧電通通りは“昔は若かった”カップルが溢れている。
いずれにしてもJR有楽町から始まる銀座の風景は、
東京五輪をめがけて劇的な変化を始めている。
1964年の東京五輪から、東京は勿論、日本全体が変わり始めたように。

今月に入って“舛添ショック”が日本全体を揺るがした。
代表質問で公明党の女性議員(松葉多美子議員)が
「公用車で湯河原に49回も行って」
「東日本大震災被災地になぜ1回も行けないのか」
の問いかけが全てだった。

猪瀬直樹と舛添要一。
老練ジャーナリスト・田原総一朗が主宰し、コメンテーターを選択、
そして論争させるテレ朝の長寿番組「朝まで生テレビ」の常連メンバーが
相次いで東京都知事となり、カネ問題に絡んで、任期を全うせず辞任した。

次の都知事は誰か。
1千万人を超える人口を抱える大都市東京で、
人気投票化が顕著になっている昨今の東京都知事選挙。
もう誰でもいいいや…
次なる都知事は誰かを考えるのも嫌になっているのは自分だけではあるまい。

変わりゆく東京と、相変わらずの政治の世界。
何か「皮肉なギャグ満載の喜劇」を見ている気持ちになる。


2016年06月11日

カシアス・クレイ。あなたは強いアメリカの象徴だった…

6月第1週末、突然のタイミングで訃報が飛び込んだ。
「ムハメド・アリ死去」。享年74。
またひとつ、よき時代が終わったような気がした。

戦後の日本が大きく転換するのは1964年の東京五輪からだったように思う。
TV文化が完全に定着したことが大きかった。
それまで情報は、“聞く”というツールだけだったが、
それから以降“目で確かめる”ことができるようになった。

そして海外からの映像がライブで見れるようになった。
米国発の最初のライブ映像が1963年11月22日の「J.Fケネディ大統領の暗殺」
だったのは皮肉と言えば皮肉だったが…
だが世界がごくごく身近なものになったのだった。

自分にとって1960年代の英雄と言えば、
若き米大統領J.Fケネディ、
1966年6月29日に来日するビートルズ、
そしてムハメド・アリだったと思う。

イスラム教への改宗と共にカシアス・クレイという本名を捨てる格好となったが、
1960年のローマ五輪でヘビー級(いわゆる無差別級)で金メダルを獲得した
カシアス・クレイの方が自分にとっては馴染が深い。

ムハメド・アリのボクサーとしての評価は勿論高い。
プロデビューした時の大統領はアイゼンハワー。
そこからレーガンまで7人の大統領の任期を通して戦い抜き、
通算3度の王座奪取と19度の防衛を成し遂げた。

ボクシングが15回戦制だった時代の、
ヘビー級王者が「王の中の王」であった時代に
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と自賛したように、
ボクシングのテッペンの無差別級に、美しさとスピードをもたらした。

1960年代初めの日本のボクシングと言えば、
ファイテング原田のフライ級、バンタム級の二階級制覇が全てだった。
ただフライ=ハエ、バンタム=ちゃぼ、フェザー=羽-
に揶揄される軽量級の世界に見慣れた自分にとって、
ヘビー級の、猛牛をも倒すドスンと音のするようなパンチに、
全く違う世界を見せられたような気がした。

それはビートルズ・サウンドで、
演歌中心の日本の歌謡曲とも、ジャズっぽいアメリカンポップスとは
全く違う世界を見せられたのと同じ感覚だった。
やっぱり世界は凄い、世界は広いんだ…と思わせた。

ムハメド・アリは「ベトコンと戦う理由がない」として徴兵を拒否、
67年に王座を奪われ、リングからも追放される。
ボクサーの旬の時期を法廷闘争に費やし4年弱のブランクをつくる。
しかし国家や世論を敵に回しても自由を求めた闘いに信念を貫いて勝利し、
キング牧師と並んで米国の黒人で最も大きな影響力を持つカリスマとなった。

試合前の相手選手への余りに横柄な“口撃”が話題となり、
その人間性を疑う向きがあるにはあった。
ただ根幹には昨今のセレブ化したスター選手にはない“やさしさ”があった。

1996年のアトランタ五輪の聖火点火の姿を見たのが最後になった。
カシアス・クレイ。あなたは1960年代の「強いアメリカの象徴」だった。
何か寂しい気がする。

2016年06月04日

ユニクロ一人勝ち!?-国際都市・東京のメンズ衣料事情-

早いものでもう6月。
梅雨の季節。そして衣替えの季節でもある。
上着とネクタイの着用はしなくていい。
では公的の場所でどういう格好をすればいいのか。
涼しげで、かつ失礼でない恰好….。
最近の男性軍の悩みのタネとなっている。

最近の東京、男性の衣料難民化が顕著になっている。
例えば、銀座のど真ん中の銀座・中央通りはまさに“女性の街”。
有名デパートや海外ブランド店が乱立する。
それらは100%ではないにしろ、ほぼ女性衣料専門店。
男性衣料専門店は、あるにはある。
が、“仕立て専門”の老舗高級店。
ン十万円が普通とあっては、簡単に敷居はまたげない。

また安価を謳うスーツの専門店もあるが、相応の歳になれば、
さすがに買った場所が推定できる安っぽい恰好はできない。
つまるところ“ないない尽くし”の中で、
10年以上前の着古しを使い回しするしかない…

衣料と一括りにするが、メンズ衣料にも種類があるのはご存じの通り。
公式のスーツに始まって、ワイシャツ、下着(靴下含む)、
寝具用品(パジャマなど)、カジュアル用品など、
女性用ほどではないにしろ、その種類は多岐にわたる。

経験値から言えば、この20年、
いわゆる消耗衣料品は、総合スーパーで賄うしかなかった。
だが、大概が「安かろう、悪かろう」のパターンだった。
洗濯が基本の消耗衣料品の消耗度が激しく、
使い捨てに近い状態がほとんどだった。

こうした最悪な環境の中、ユニクロが存在価値を高めている。
例えば、ワンコイン(500円)のTシャツ(下着用)。
バーゲンともなると350円あたりでゲットできる。
こうなれば(やけくその)大量買い。
一気に20枚。合計7000円也。
洗濯して着れなくなったら、ゴミ箱にポイだ….。
そう思ってガンガン洗濯しても、とりあえず着れるのである。
(気がつけば、ワンコインTシャツを2年以上着回している…)

「洗濯に強く(時には暴力的な)安価」というユニクロ製品を実体験し、
パジャマ(最近は部屋着と呼ばれている)だ、ジーンズだ、
いわゆる街着のTシャツだ、ポロシャツなどと、
必要品を次々に購入するようになっていった。
気がつけばユニクロ製品オンリーの世界になり始めている。

山口市に本社を置く地方企業・ファーストリフティングが躍り出た原動力は
「(服づくりの)革新性」。
1998年、当時1着1万円以上が当たり前だったフリースを1900円で発売、
「フリースブーム」を巻き起こした。
以降国内の衣料品市場ではユニクロが先行し、
他社が追随するという構図が続いている。

「服は部品」であり「究極の普段着を作る」とするユニクロの理念は、
プロゴルファーのアダム・スコット、
プロテニスの錦織圭や、帝王ノバク・ジョコビッチを広告塔にして、
そのポジションを確固たるものにしていった。
テニスの世界的大会の決勝で
「ユニクロVSユニクロ」の図はまさに驚異ではある。

かくして衣料難民が徘徊する国際都市・東京で、
ユニクロの一人勝ち状態が続いている。
恐るべしユニクロ、快進撃が続いていく…


カテゴリー

アーカイブ

最近のコメント