2017年11月25日

急激にガタつく角界。一気に3横綱引退の危機

年6回の大相撲本場所。
この2カ月毎に15日の大相撲TV放送は、やはり人気のコンテンツである。
今年の本場所は90日間が全て「満員御礼」という、21年振りの盛況となった。
言葉を変えれば、その人気は少々異常だった。
こうした異常人気を支えたのが「相撲女子」の急増。
ブームの尖兵は“気まぐれな”若い女性という、いつものパターンではあった。

直径4.55メートル(15尺)の円形の土俵で
褌ひとつの裸の格闘技、それが相撲である。
頭蓋骨VS頭蓋骨の激しいぶつかりで、
“ゴツン”という生々しい音を立てて始まる壮絶な世界。
そして問題なのは、
6.7メートル四方の土台が34~60㌢の盛り土状態になっている点である。
0.2㌧×2=0.4㌧の肉塊が折り重なって落下する。
怪我をしない方がおかしい。特に下半身が悲鳴を上げる。
日本の相撲道が考えた伝統的なスペースでは
身長185~190㌢、体重は150㌔あたりが限界ではないのか。

今年の収めの九州場所は最初から何とはなしに雰囲気が怪しかった。
横綱鶴竜の4場所連続の全休、
両膝の全面崩壊で全休のサーカス相撲・業師・宇良、
全休明けの横綱稀勢の里への不安、大関陥落・照ノ富士の回復不安など、
不安感満載の場所開けだった。

案の定、稀勢の里も照ノ富士も途中休場、
横綱日馬富士も初日2日の連敗の後、休場となった。
4横綱が揃っての皆勤は平成4年九州場所以来全くない。
「横綱4人は尋常ではない=何かが起きる」とする
“不思議なジンクス”は生きていた。

そして、突如スポーツ紙にスッパ抜かれたのが
「日馬富士の貴ノ岩暴行事件」だった。
「ビール瓶で強打した」「貴ノ岩・頭蓋骨骨折」等々、
興味半分を生業とするワイドショーやニュース関連番組は、
格好の“ネタ”に飛びついた。

プロ相撲の大相撲は、今も昔も
番付によって絶対的な上下関係が制度化されたクラシックな世界である。
下位力士は上位力士には逆らえない。
権威を暴力として誇示されても泣き寝入りするしかない。
一方で、上位力士が下位力士に厳しい稽古をつける「かわいがり」がなければ
下位力士が成長しないのもまた確かだ。

今から3年くらい前だろうか、
飲み屋街のエレベーターで横綱日馬富士に出会った。
TV画面では小柄に見える日馬富士も、実際は筋肉隆々、小山のように見えた。
酔った勢いで「頑張って!!」と声をかけたら、
意外にも「ハイッ!」と大きな声で返事してくれた。
横綱という最高の地位にいても、一般的には30歳過ぎの“あんちゃん”である。
そんな“あんちゃん”に、
神がかりの「崇高な精神」を求めても無理なのではないか。

今回の事件の背景には、貴ノ岩の師匠・貴乃花親方の存在が取り沙汰されている。
どうやら「大相撲改革」を目論んでいるらしい。
ただ大相撲には、長い歴史の中で生成され、積み上げられてきたものや、
常識や習慣や制度には、一見不合理に映ったとしても何らかの意味を持つ重要な
ものが多く存在する。
何でもかでも早急に変えることは不可能である。

今回の事件を起こした日馬富士は勿論として、
成績不振の鶴竜、稀勢の里に同時引退危機迫る。
今やモンゴル勢に主導権を握られる日本の国技大相撲の
(本当の意味の)混乱は、九州場所後が本番である。

2017年11月18日

「今回の株高は少しヘン?」と思わない方がヘン!?

初めに断っておきたいのは
「日本の株価上昇の全てに懐疑的ではない」という点である。
日本の株式市場は、戦前も戦後もいわゆる株屋気質の色濃い世界であり、
煽りに煽って、結局はあらかじめ仕込んだ株式を投資家に高値で売りつけて、
大相場をスリ抜けてきた歴史だからである。
それが要因のない株高を快く思わない所以である。

今回の急上昇も、日足・週足が全く機能しない“棒上げ”相場。
理論的に根拠の薄い“人為相場”の匂いが充満している。
確かに現在の金融市場はコンピュータ主導型であり、
全てが無機質なコンピュータの仕業だとしても、
最近の「コンピュータ・オールマイティ」主義に沿って、
全く無防備にコンピュータに従えばいいというものではない。

まず現在の立ち位置を確認したい。
アベノミクスに喧伝され12年11月に始まったのが第1波で、
9,000円から15,000円に押し上げた。
14年の衆院選から15年6月の高値20,868円に到達したのが第2波。
そして今回は17年9月8日の19,239円を底に
23,000円(=11月9日23,382円)を上抜けた。これが第3波である。

この23,000円という値段はテクニカル的には重要な値段である。
ここ30年のスパンで考えれば、
89年12月(大納会)の高値38,957円から、底値の09年3月の7,021円の
半値戻しが22,989円≒23,000円ということになる。

ではこれ以上の上昇はないのかといえば、絶対不可能ではないにしても、
半値戻し以上の上昇には「???」がつく。
テクニカル的には相当無理をしている相場が、
このまま驀進するとはどうにも考え難い。
「相応の押し目があるから再上昇する」が相場の鉄則。
従って現在は「買っておけば安心」という状況にはない。

恒例の“後付け理由”を羅列してみる。
現在の景気は、
1965年11月から70年7月までの57カ月間の「いざなぎ景気」を超え、
2019年1月まで続けば、
02年2月から73月間続いた戦後最長期間を抜く勘定となる。

背後にあるのは09年7月から8年超続く米景気。
そして9年近く続く独経済、7年超の英経済、約5年の仏経済など、
世界の大国の好調経済である。
G7の大国日本が世界の列国に仲間入りしてもおかしくはない。

だが米アップルや中国・アリババ等を筆頭とするIT企業が中心の
現在の世界の株式市場において、日本の現状はいかにも貧弱である。
90年以降に上場した日本企業で時価総額が1兆円を超えるIT企業は、
ソフトバンク・グループや楽天など、ごく一部である。
時価総額上位にはトヨタ、NTT、メガバンク等の「旧来型」の大企業ばかり。

ここにきて
「その国の名目GDPを市場全体の時価総額を超えると株価は割高」とする
米ウォーレン・バフェットの「バフェット指標」が注目され始めている。
東証一部の時価総額は名目GDPを大きく上回っている。

23,000円到達後はさすがに急落模様とはなっている。
“当分の頭は打った”との見方が順当だが、予断は許さない。
ITの進捗で、不自然な急変が当たり前の世の中で、
「何か変だ」「何かおかしい」との見方はシッカリ持ち続けるべきだ。
「コンピュータの全てが一流ではない」のだから。

2017年11月11日

浸透し、日常化する世界のスポーツ

11月7日。立冬。
10月ギリギリまで襲来した巨大台風で実感はなかったが、
ラジオの深夜放送で、槇原敬之「冬がはじまるよ」のメロディが流れた時、
そうかまた冬が来るのか…我に返った。
ただ寒さより、2017年の野球シーズン終了を肌で感じる昨今である。

95年の野茂、01年のイチロー、そして03年の松井のMLB移籍からは格段に、
MLB(米大リーグ)にのめり込んでいる。
09年の松井のワールドシリーズMVP(最高殊勲選手賞)獲得で、
日本人選手の平成30年間のピークを打った感があるが、
自分のMLBへの関心は不変である。
MLBは、30年という時間を経過して、日本に完全に浸透した。

スポーツは筋書きのないドラマが展開されるから面白い。
だが世界のスポーツを見る機会はそうは多くなかった。
結果が分かったニュースを見る程度。
だが現在は違う。
野球ばかりでなく、ゴルフ、サッカー、テニスを始めとして、
アメラグ、バスケ、スキー、フィギュア・スケート等、
あるとあらゆるスポーツがライブで楽しめる。

17年のMLBのポストシズーンは日本にとって中身が濃かった。
理由は簡単である。
米東海岸・田中のヤンキース、
西海岸・前田&ダルビッシュのドジャースが勝ち上がってきたからである。
このパターンは初めてだった。
結果、東が午前8時頃から試合開始、そして西が11時あたりからという、
“過密”スケジュールになった。嬉しい悲鳴を上げた。

そしてこの時期は、日本シリーズがらみの時期に重なる。
結果、午前8時から、午後10時頃まで約14時間超、
野球オンリーの世界になることもあった。
自分の場合、基本的にはBGMとして流しておくだけだが、
17年10月は“ワールド・オブ・ザ野球”と相成った。

今年のワールドシリーズは、
ヒューストン・アストロズと、ロザンゼルス・ドジャースの、
がっぷり四つの獰猛な打撃戦になった。
150㌔超のスピードボールを、
事もなげにピンポン玉のようにスタンドに放り込む。
力勝負のガチンコは迫力あり、見応えがあった。

「頑張ろう神戸」「頑張ろう東北」と同じノリで、
「(大洪水から立ち直ろう)ヒューストン・ストロング」が合言葉となり、
球団創設以来56年で初めてアストロズがワルード・チャンピオンとなった。
大地震に見舞われた神戸や東北と同じで、
本拠地・ミニッツメイドスタジアムの観客の沸騰振りは異常だった。

ワールドシリーズに今一歩だったヤンキース・田中は面目を保つ格好となったが、
ダルビッシュも前田も、往時の日本を代表する大エースの面影は薄かった。
絶対的な力不足は明白だった。“滑るボール”は言い訳にできない。
二刀流・大谷を筆頭に、日本球界からMLB目指す選手が注目されているが、
ボロボロになった平成の怪物・松坂大輔、
次々に盥回しにされた青木宣親の例を見るまでもなく、
予想以上にMLBのレベルは高く、生き残り自体が楽ではない。

11月に入って、多少の虚脱感がある。
連日の野球放送がピタリと止まったからである。
確かにゴルフや大相撲や、サッカー、フィギュアスケート、バスケ、アメラグ、
そして平昌冬季五輪等が待っている。
だが、今年の野球の世界のような重厚な熱気の再来はどうだろうか。

つくづく思う。
スポーツとは偉大だ、世界が狭くなった、凄い時代になったと。

2017年11月04日

現代政治家のいう「改革」の本質は何か

10月22日の第48回衆院選挙の後、日本の世相はフラフラ揺らめいている。
「なぜ解散する必要があったのか」を明確にしないまま、
選択される政治家に明確な確信もなく、主義主張もないまま、
“就職活動のような選挙戦”に、“ふっきれない何か”が燻り続けている。
ここで整理しておかねばならないだろう。

日本人の「改革好き」は戦前、戦中、戦後を通して続いてきた。
歴代のNHKの大河ドラマでも
戦国時代の豊臣秀吉・徳川家康や、明治維新物等の、
筋書きが分かっていても「改革」がテーマになっているものが好まれている。
ある種の国民性だろう。

平成の30年間に関しても政治家は率先して「改革」を掲げた。
小沢一郎は「守旧派」のいう名で、小泉純一郎は「抵抗勢力」という名で、
民主党は「悪玉官僚」という名で、“政権奪取のための”標的をつくった。
こうした延長線上に安倍政権も希望の党もある。

近代西欧政治は二つのタイプの人間を生み出した。
「判断の責任を引き受ける個人=カリスマリーダー」と
「生半可な知識を持つ個人=大衆」である。
大衆は前近代的な社会的束縛から解放され自由になった反面、
不安に苛まれるようになる。
結果、自分達を心地よく守ってくれる
「世界観」「疑似共同体」「強力なリーダー」を求めるようになった。

政治を生業にする職業政治家は、こうした大衆のニーズを利用するようになった。
実現不可能な理想の未来を提示し、「改革気分」を煽れば、
大衆がなびいたからである。
「強いリーダーに縛られたい大衆と、そのニーズを利用する政治家」
という構図である。

折りしも「民の声を直接政治に反映する」ことを真髄とする
“ポピュリズム”という世界的な風潮も、こうした流れを増長した。
日本では「大衆迎合」と訳されているが、
ポピュリズムそのものは民主主義の一面性であり、今更目新しいものではない。
しかしプロの政治家は、
「大衆に直接訴えて、既存の権力構造に外から挑戦する」流儀として、
あたかも目新しい考え方のように強調した。

世の中には変えていいものと、変えてはいけないものがある。
先人たちの長い営みの中で生成され、積み上げてられてきたものや、
常識や習慣や制度には、一見不合理に映ったとしても
何らかの意味を持つ重要なものが多く存在する。
「改革」とうい名で、何でもかでも変えてはならないのである。

いずれにしても「改革」という美辞麗句はまことに便利なキーワードではある。
改革に失敗すれば、改革が足りなかったからだと言い訳し、
もっと改革しろと言い易いからである。
かくして選挙に勝たんがために、政権を奪取せんがために、
「改革」と声高に叫び続けるに至っている。

「大衆を扇動すれば何とかなる」との論理が先行する中で、
今回の衆院選挙での右往左往振りはひどかった。
主義主張のない有象無象の国会議員なんか税金の無駄遣い。
半分に減らしても何ら困らない。
これまでの「数の論理(=数さえ揃えばなんとでもなる主義)」こそ
真っ先に改革すべき点と思うが…


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